土一揆と異常気象が歴史に与えた影響とは?徳政令や気候変動との関係を解説!室町時代の土一揆:気候変動と社会不安
借金帳消しを巡る激動の歴史! 徳政令は、時代によって目的を変え、農民蜂起の引き金にもなった。室町時代の土一揆は、異常気象による飢饉と重なり、民衆の怒りが爆発! 政治的思惑や社会不安が渦巻く中、徳政令は時に希望となり、時に混乱を招いた。教科書では語られない、異常気象と歴史の関係性にも注目!
室町時代の土一揆
戦国時代の混乱は、気候変動の影響を受けていた?
太陽活動の影響が大きい
この章では、教科書ではあまり触れられていない土一揆と異常気象の関係性について掘り下げていきます。
公開日:2021/08/22

✅ 1420年から1540年頃の太陽活動が低下した「シュペーラー極小期」に、日本全国で飢饉が頻発し、土一揆が複数回発生した。
✅ 冷夏・長雨による飢饉が原因で、農民が生活の困窮から蜂起し、徳政を求める一揆が起こった。
✅ 教科書では、戦国時代の土一揆の原因として異常気象による飢饉が記述されていないことが多いが、シュペーラー極小期における気候変動が、当時の社会不安定化に大きく影響を与えていたと考えられる。
さらに読む ⇒歴史逍遥『しばやんの日々』出典/画像元: https://shibayan1954.com/history/muromachi/onin-war/kikin/異常気象が土一揆に与えた影響を考慮すると、歴史の見方が変わってきますね。
1428年の正長の土一揆は、天下の土民が蜂起し、酒屋、土倉、寺院などを破壊して借金を帳消しにした事件として記録されています。
また、1441年の嘉吉の徳政一揆は、足利義教の暗殺後、借入金の返済を見直す「代替りの徳政」を求める声が高まった結果、発生しました。
これらの土一揆は、当時の社会不安と農民の窮状を表す象徴的な出来事と言えるでしょう。
論文では、東アジアの平均気温推移をグラフ化し、シュペーラー極小期の太陽活動が低迷していたことを示しています。
太陽活動の低下は、穀物収穫量の減少や飢饉発生につながります。
シュペーラー極小期は、応仁の乱から戦国時代にかけての時代と重なり、この時代が戦乱と争いの時代であったことは、異常気象の影響が大きかったと考えられます。
一方で、高校の教科書では、この時代の土一揆の発生について、異常気象による飢饉との関連性をほとんど触れていません。
論文では、教科書におけるこの欠落を指摘し、異常気象が歴史に与えた影響を重要視する必要があることを主張しています。
教科書では触れられてない部分にも着目するのは、歴史を深く理解する上で大切ですね。
土一揆の発生と背景
室町時代の農民蜂起「土一揆」は何を求めて起こった?
借金の帳消し(徳政)
土一揆の発生背景には、様々な要因が複雑に絡み合っていたことがわかります。

✅ 貨幣経済の発展による高利貸への借金返済の困難、領主による年貢の増額や高利貸への徴収委託、関所の設置による運送業者への負担増加などが土一揆発生の背景として挙げられます。
✅ 土一揆は、荘園や公領を超えた惣村の農民や運送業者らが、借金の棒引きを求める徳政を要求したもので、正長・嘉吉の土一揆では、京都・奈良から畿内近国に広がり、高利貸の証文を破棄したり、質物を奪ったりしました。
✅ 土一揆は、幕府との交渉を通して徳政令の発行を勝ち取りましたが、幕府は分一徳政令によって高利貸を保護し、新たな収入源を確保しました。土一揆は幕府の収入減少に繋がり、幕府の衰退の一因となりました。
さらに読む ⇒山武の世界史出典/画像元: https://yamatake19.exblog.jp/21696880/徳政を求める農民の行動は、当時の社会構造に一石を投じたと言えるでしょう。
室町時代に頻繁に起こった農民蜂起「土一揆」は、農民が支配者層に借金の帳消し(徳政)を求めて起こした武力闘争でした。
1428年の正長の土一揆は、天候不順による飢饉と高利貸しによる搾取によって窮地に陥った農民が、京都を中心に蜂起し、徳政を求めた事件です。
この一揆は、農民が武力で支配者層に要求を呑ませた初めてのケースであり、その後も各地で土一揆が発生しました。
1441年の嘉吉の土一揆は、足利義教暗殺事件を受けて、京都とその周辺で発生した大規模な土一揆であり、幕府はついに徳政令を発布し、農民たちの要求に応えました。
土一揆は、農民の窮状と、当時の社会構造における権力と民衆の対立を如実に示す歴史的事件であり、日本の歴史において重要な位置を占めています。
土一揆って、そんなに色々なことが背景にあったんですね。武力闘争だったとは…。
嘉吉の土一揆とその影響
嘉吉の土一揆は、なぜ起こった?
混乱に乗じた徳政要求
嘉吉の土一揆は、その後の社会に大きな影響を与えました。
公開日:2023/02/03

✅ 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、近畿地方を中心に、農民たちが自らの手で作り出した自立的・自治的な村である「惣村」が形成されました。惣村は、荘園や郷の内部に複数の村が形成され、住民たちは地縁的な結びつきを強化し、共同行動をとるようになりました。
✅ 惣村は、荘園領主に対する年貢や公事などの要求を満たすために、一揆を起こしたり、百姓申状を提出したり、実力行使に出ることもありました。惣村は、名主層や小農民など、村の構成員をまとめ、宮座などを通じて村民の結合を強め、惣百姓と呼ばれる正規の構成員を形成しました。
✅ 惣村は、村の運営や渉外を行うおとな、沙汰人、番頭などの指導者によって運営され、地下請けなどの制度を導入し、共同利用地や灌漑用水の管理、村の規約である惣掟を定め、村民自身による警察権である地下検断を行いました。惣村は、強力な連帯意識を持ち、独自の秩序を維持し、領主支配に対する抵抗勢力として台頭しました。
さらに読む ⇒世界の歴史まっぷ世界史用語を国・時代名・年代・カテゴリから検索出典/画像元: https://sekainorekisi.com/japanese_history/%E6%83%A3%E6%9D%91%E3%81%AE%E5%BD%A2%E6%88%90%E3%81%A8%E5%9C%9F%E4%B8%80%E6%8F%86/嘉吉の土一揆は、飢餓による民衆の苦しみと生き残りをかけた行動が根源にあったのですね。
嘉吉元年(1441年)の嘉吉の土一揆は、赤松満祐による室町幕府六代将軍・足利義教暗殺事件(嘉吉の乱)後の混乱期に発生しました。
この混乱に乗じて、農民たちは「代替りの徳政」を求め、京都・近江の馬借を中心に蜂起し、地侍の指導の下、数万人規模の一揆に発展しました。
彼らは『代始めの徳政には先例がある』と主張し、京都を包囲しました。
幕府の京極軍が東山の清水の坂で土一揆を阻止しようとしましたが、赤松攻めに多くの兵力が動員されていたため、京はほぼ無防備な状態でした。
結果、土一揆勢は京の街を襲い、放火や略奪を行い、京の経済を麻痺させました。
土一揆勢は京への入り口である「七道口」を封鎖し、物資の供給を断ち、首都の生活を混乱させました。
この状況を受け、幕府は初めて「一国平均の徳政」を告げる広域徳政の制札(徳政令)を、土一揆の集中していた七つの街道口に掲げました。
しかし、借金棒引きの徳政令は土一揆の人々を満足させることができず、土一揆は続きました。
嘉吉の土一揆は、飢餓による民衆の苦しみと生き残りをかけた必死の行動が根源であり、単に債務を帳消しにすることだけが目的ではなかったことを示しています。
その後も、応仁の乱の前まで頻繁に土一揆が発生し、その後の文安四年(1447年)には「文安の土一揆」、享徳三年(1454年)には「享徳の土一揆」が発生するなど、室町幕府は民衆の怒りと飢餓の脅威に常にさらされていました。
室町時代中期、畿内を中心に頻繁に起こった土一揆(徳政一揆)は、農民たちが作った惣村の団結を基に、都市部の町人や武士をも巻き込み、徳政(債務免除)を求めて蜂起したものです。
主な土一揆には、正長の土一揆(1428年)、嘉吉の徳政一揆(1441年)、寛正の土一揆(1460-1461年)などがあり、それぞれ背景や規模、結果が異なっています。
正長の土一揆は、初めての規模の大きな一揆であり、管領畠山満家が鎮圧しました。
嘉吉の徳政一揆は、将軍の代替わりを機に徳政を求め、幕府は山城一国に徳政令を発布しました。
これは、初めての幕府による徳政令であり、以降幕府は度々徳政令を発布するようになりました。
寛正の土一揆は、寛正の大飢饉による社会不安の中で発生し、京都で大きな被害をもたらしましたが、赤松政則らの活躍により鎮圧されました。
また、享徳3年(1454年)の播磨で起こった「享徳の徳政一揆」は、債務者と債権者の双方から手数料を徴収する「分一徳政令」を生み出し、この制度はその後常態化しました。
土一揆は、室町時代の社会不安や経済的な困窮を背景に、民衆が主体的に立ち上がった運動であり、幕府や社会に大きな影響を与えました。
これらの土一揆は、室町時代の社会構造や権力関係を揺るがし、後の戦国時代に繋がる重要な出来事であったと言えるでしょう。
へえー、嘉吉の土一揆って、そんなにすごい出来事だったんですね!
本日の記事では、徳政令、異常気象、土一揆の関係性を紐解き、歴史の奥深さを感じました。
💡 徳政令は、時代によって内容が変化し、社会情勢に大きな影響を与えました。
💡 15世紀の異常気象は、飢饉を引き起こし、社会不安を増大させ、土一揆の発生を促しました。
💡 土一揆は、農民による徳政要求運動であり、社会構造に変化をもたらしました。