後醍醐天皇と吉野、歴史の転換点とは?激動の時代を駆け抜けた後醍醐天皇と、その舞台となった吉野の地。
激動の時代を駆け抜けた後醍醐天皇。鎌倉幕府を倒し建武の新政を始めるも、武士や公家の反発で頓挫。吉野に南朝を開き、南北朝時代を招く。天皇親政を夢見た彼の生涯と、南朝の拠点となった吉野の歴史を紐解く。激しい戦いと文化が交錯した、知られざる日本のルーツに迫る。
後醍醐天皇の生涯
後醍醐天皇の最大の目標は何だった?
建武の新政樹立
建武の新政を支えた三房と呼ばれる人々の役割や、後醍醐天皇との関係性について解説します。
公開日:2024/06/04

✅ 建武の新政を補佐した「三房」と呼ばれる北畠親房、万里小路宣房、吉田定房について、彼らの役割や特徴、後醍醐天皇との関係性について解説しています。
✅ 建武の新政は、後醍醐天皇の理想主義的な政策と現実との乖離、トップの誤った判断により、民衆や貴族からの支持を得られず、最終的に失敗に終わったことがわかります。
✅ 足利尊氏は建武政権の重職には任じられず、功績に見合わない扱いを受けていたことから、建武政権の失敗を予見し、わざと権力の中心から遠ざかっていた可能性が示唆されています。
さらに読む ⇒ページ出典/画像元: https://bushoojapan.com/jphistory/middle/2024/06/04/113035/4後醍醐天皇の生涯は、倒幕、建武の新政、そして南朝の樹立と、波乱万丈そのものだったと言えますね。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府の支配下で、天皇家の正統性を主張し、建武の新政を樹立することを目標に活動しました。
彼の即位は、大覚寺統と持明院統の交代制により、本来は持明院統の番でしたが、後二条天皇の早逝により、花園天皇が繋ぎ役として即位したためです。
後醍醐天皇は、自分が正統な天皇であり、鎌倉幕府の支配から脱却し、自らによる新しい政治体制を築きたいと考えていました。
彼は、鎌倉幕府の政治に反対する人々や、皇位継承に関する不満を持つ勢力を味方につけて、倒幕運動を開始しました。
しかし、彼の計画は幕府に露見し、彼は笠置山に立て籠もり、徹底抗戦の構えを見せました。
最終的に、後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政を樹立しますが、わずか2年で失敗し、南朝を開くことになります。
彼の人生は、鎌倉幕府の滅亡と南北朝時代の始まりという、激動の時代のど真ん中にあったと言えるでしょう。
建武の新政を支えた人々にも、様々な思惑があったのでしょう。後醍醐天皇との関係性も気になります。
南北朝時代の始まり
南北朝時代、なぜ二つの朝廷が対立したの?
建武の新政が武士反感を招いたため
南北朝時代は、二つの朝廷が存在し、武士や公家、そして民衆を巻き込んだ激しい動乱の時代でした。
公開日:2023/05/22

✅ 南北朝時代は、鎌倉時代と室町時代の間にあたる時代で、1336年から1392年まで、50年以上続いた内乱の時代です。
✅ 南北朝時代は、足利尊氏が光明天皇を擁立し、後醍醐天皇が吉野に南朝を開いたことで、京都と吉野に二つの朝廷が同時に存在したことから、その名が付きました。
✅ 南北朝時代の特徴としては、二つの朝廷が対立し、何度も争いが起こったこと、そして室町幕府の成立と、最終的に足利義満によって南北朝の合一が実現したことが挙げられます。
さらに読む ⇒(はぐくむ)小学館が運営する乳幼児~小学生ママ・パパのための育児情報メディア出典/画像元: https://hugkum.sho.jp/484306南北朝時代は、日本の歴史の中でも特に複雑な時代ですが、後醍醐天皇の足跡を辿ることで理解が深まります。
南北朝時代は、1336年から1392年までの57年間、後醍醐天皇が吉野に南朝を開き、足利尊氏が京都に北朝を開いたことで、二つの朝廷が対立した時代です。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒した後に「建武の新政」を開始しましたが、その政策は武士たちの反感を買いました。
その後、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し、京都を占領して光明天皇を擁立しました。
後醍醐天皇は吉野に逃れ、渡した三種の神器は偽物だと主張し、南朝を開きました。
その後、南北両朝は、約半世紀に渡って対立を続けました。
南北朝時代は、教科書で学ぶだけではなかなか理解が難しいですが、後醍醐天皇を中心に考えると、少しは見えてくるかもしれませんね。
吉野と南朝
吉野はどんな歴史的舞台だった?
南朝の拠点
後醍醐天皇がなぜ吉野を南朝の拠点としたのか、その地理的、戦略的な背景を探ります。

✅ 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政が始まりましたが、足利尊氏が反乱を起こし、室町幕府を開きました。
✅ 後醍醐天皇は、尊氏と講和した後、花山院から脱出して吉野に逃れ、自らの皇位を正当とする主張のもと、南朝を建国しました。
✅ 後醍醐天皇が吉野を根拠地とした理由は、防御と補給に適していたためと考えられています。
さらに読む ⇒日本文化と今をつなぐウェブマガジン出典/画像元: https://mag.japaaan.com/archives/235245吉野は、後醍醐天皇にとって単なる避難場所ではなく、文化や精神性の拠り所でもあったことが分かりますね。
奈良県吉野は、広大な面積を誇り、豊かな自然に恵まれた地域です。
古くから人々の心を惹きつけ、応神天皇や中大兄皇子といった皇族が訪れ、吉野宮が築かれました。
また、源義経や後醍醐天皇も、それぞれ困難な状況下で吉野に身を寄せ、再起を図りました。
特に、後醍醐天皇は吉野で「南朝」を開き、京都の「北朝」と対峙する南北朝時代を築きました。
南朝の歴史は約120年続き、吉野は長く「南朝」の拠点となりました。
後醍醐天皇の死後、南朝の皇統は後村上天皇、北畠親房らによって継承され、足利尊氏との激しい戦いが繰り広げられました。
南北朝時代の終わりには、後亀山天皇が後小松天皇に三種の神器を渡し、「明徳の和約」が成立し、南北朝は統合されました。
しかし、南朝系皇族の金蔵主兄弟による「禁闕の変」や、後南朝の尊秀王の殺害など、その後も吉野は南北朝の対立の舞台となりました。
現在でも、川上村の金剛寺では、尊秀王を偲ぶ「御朝拝式」が毎年行われ、南朝の歴史を今に伝えています。
吉野は、後醍醐天皇にとって特別な場所だったんですね。吉野という土地の持つ力も感じます。
後醍醐天皇の生涯と、その舞台となった吉野。
激動の時代を生き抜いた天皇の姿は、私たちに多くの示唆を与えてくれます。
💡 後醍醐天皇の生涯を振り返り、鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代の始まりまでを辿りました。
💡 建武の新政の失敗原因を探り、後醍醐天皇の政治的理想と現実とのギャップを考察しました。
💡 南朝の拠点となった吉野の歴史的意義、地理的・文化的背景を解説しました。