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『播磨国風土記』の世界へ!古代播磨の歴史と文化を探る旅!古代播磨を紐解く:『播磨国風土記』が伝えるもの

713年編纂の『播磨国風土記』は、古代播磨の土地、歴史、人々の暮らしを伝えるタイムカプセル。地名由来、神話、生活描写が詰まり、古代日本の息吹を感じられる。英訳版やデジタル公開で注目度も上昇中! 播磨国府の編纂背景、国司候補、現存する古写本、そして伊和神社の謎まで。古代播磨のミステリーに迫る一冊!

『播磨国風土記』の世界へ!古代播磨の歴史と文化を探る旅!古代播磨を紐解く:『播磨国風土記』が伝えるもの

📘 この記事で分かる事!

💡 『播磨国風土記』は、古代播磨の土地、歴史、伝説を記録した貴重な史料。古代の人々の暮らしを具体的に示す。

💡 本書では、風土記の編纂背景、地名の由来、神話や伝説を詳細に解説。古代播磨の社会構造を解き明かします。

💡 伊和神社とオオクニヌシの関係、宍粟市の歴史と伝説も紹介。古代史研究の最前線に迫ります。

それでは、古代播磨の世界への旅に出かけましょう。

まずは、その出発点となる『播磨国風土記』の概要からご紹介します。

「播磨国風土記」の概要と編纂

「播磨国風土記」はどんな書物?

古代播磨の記録

本日は『播磨国風土記』の世界へようこそ! 奈良時代に編纂されたこの風土記は、古代播磨の姿を今に伝えています。

その概要と編纂の背景を詳しく見ていきましょう。

播磨国風土記
播磨国風土記

✅ 「播磨国風土記」は、奈良時代初期に編纂された播磨国(現在の兵庫県付近)の風土記で、平安時代末期に書写された写本が国宝に指定されています。

✅ この風土記は、和銅6年(713年)に国司に命じられた、各国の風土に関する報告書「解」を基に作成されたと考えられており、霊亀元年(715年)頃に成立したと推測されています。

✅ 「播磨国風土記」は、明石郡の全体、加古郡の冒頭、赤穂郡の全体など、一部が欠落しているものの、在地の伝承が比較的そのまま残されている貴重な史料であり、素朴な文体が特徴です。

さらに読む ⇒出典/画像元: https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E6%92%AD%E7%A3%A8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

古代の地方行政や地名の由来を知る上で、非常に興味深い史料ですね。

現存する写本が国宝に指定されていることからも、その重要性が伺えます。

「播磨国風土記」は、713年に編纂された古代播磨の土地、歴史、伝説を記録した貴重な史料です。

現存する五つの風土記の中で最も古いと考えられており、播磨国の国・郡・里という当時の行政組織に基づいて、土地の特産品、地味の良し悪し、地名の由来、古老の伝える故事来歴などが記録されています。

この書物は、古代の人々の生活を具体的に示している部分が多く、古代播磨の社会構造、信仰、渡来人の影響、天皇と地域の関係などを理解する上で重要な資料と言えます

近年では英訳版が出版され、海外でも注目されています。

さらに、デジタルアーカイブ公開によって、研究者だけでなく一般の人々もアクセスしやすくなり、古代の歴史に触れる機会が増えています。

『播磨国風土記』は、和銅六年(713年)から霊亀二年(715年)の間に編纂されたと推測されます。

編集者は国守の巨勢邑治、大石王、石川君子が候補に挙がり、実務は楽浪高丘河内が担当した可能性があります。

原本は失われ、現存するのは平安中期ごろの古写本のみです。

流布は遅く、元禄十六年(1703年)に前田綱紀が三条西家本を見たのが最初で、広く世に知られるようになったのは明治時代に栗田寛や敷田年治による『標注古風土記』の刊行によるものです。

播磨国風土記は、現在の姫路市周辺に置かれた播磨国府の国司によって編纂され、提出されました。

播磨国府は、国司が仕事をした国庁やその他の役所、官舎などが置かれた都市で、発掘調査により姫路郵便局付近を中心とした範囲に役所建物があったと推定されています。

播磨国は、大国として国司9名、その他の職員534名が配置され、任命された国司は、守、介、掾、目、史生など、任期4~6年で国の行政、軍事、司法、宗教、交通など幅広い業務を担っていました。

風土記編纂に関わった播磨国司候補として、巨勢朝臣邑治、石川朝臣君子、楽浪河内の3名が挙げられます。

巨勢朝臣邑治は遣唐使として唐に派遣された経験を持つ国司で、石川朝臣君子は大夫として万葉集に歌を贈られた人物です。

楽浪河内は百済からの渡来人である父を持つ官人で、万葉集に2首の和歌を残しています。

これらの国司たちが、播磨国の歴史や文化を記録した播磨国風土記を編纂したと考えられています。

これは面白いですね! 713年に国司に命じられて編纂されたんですね。当時の行政システムや、地名がどのように記録されたか、興味津々です!

「播磨国風土記」が伝える古代播磨の暮らしと地名

「播磨国風土記」は何を知るための貴重な資料?

古代日本の様相

さあ、皆様、『播磨国風土記』が伝える古代播磨の暮らしに迫ります。

中央政権との関わり、祭りや習俗を通して、人々の生活を紐解いていきましょう。

播磨国風土記』の古代史
播磨国風土記』の古代史

✅ 本書は、古代の地誌である「播磨国風土記」を通して、古代の播磨地域の社会、文化、暮らしを詳細に解説したものです。

✅ 中央政権との関わり、地域間交流、地名の由来、祭りや習俗など、古代の人々の生活様式を、1300年以上前に書かれた「風土記」という貴重な資料から明らかにしています。

✅ 本書は、17名の執筆者による37編の論文で構成され、播磨の歴史、文化、地域社会について多角的な視点から考察しています。

さらに読む ⇒神戸新聞総合出版センター出典/画像元: https://kobe-yomitai.jp/book/1291/

古代の人々の生活が、これほど具体的に記録されているのは、大変貴重です。

地名に込められた人々の想いや、当時の社会構造を知る良い機会になりますね。

「播磨国風土記」は、地名にふさわしい文字をあて、特産物や地名の由来、古老伝承などを記録した上申書であり、古代の日本の様相を知る上で貴重な資料です。

特に民衆の生活ぶりや生の声を伝える記録が少ない中で、『播磨国風土記』は、恋愛、怨恨、争奪など、人々のたくましい生活ぶりや願望を数多く伝えています。

例えば、埴岡の里の由来は、大汝命と小比古尼命の争いから生まれたという伝説が記されており、神々の足跡が地名に反映されていることがわかります。

また、姫路市中心部の十四丘は、子神火明命が船を破壊した際に、船の積載物が落ちた場所に由来するという伝説が語られています。

播磨国風土記に記載されている8世紀頃の播磨国の地名をまとめたものです。

明石郡と赤穂郡の記録は欠落していますが、残りの10郡から360例以上の地名が確認されています。

そのうち現在も使われている地名は約33%です。

風土記には、それぞれの郡における山、川、村、丘、墓などの地名が詳細に記されています。

例えば、揖保郡には伊刀嶋、香山里、鹿来墓里などの地名が記録されています。

これらの地名を通して、古代の播磨国の地理的な特徴や人々の暮らしの様子を垣間見ることができます。

えー!恋愛とか争いとか、古代の人々も私たちと変わらない感情を持っていたんですね!地名にそんなエピソードが残っているなんて、散歩が楽しくなりそう!

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