徳川家達と徳川慶喜、明治維新の狭間で揺れた二人の人生とは?明治という激動の時代を駆け抜けた徳川家達と慶喜
江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜。大政奉還という決断の裏には、薩長との対立、列強の脅威、そして自身の複雑な思いがあった。一方、徳川宗家16代当主・家達は、幕末の混乱期を生き抜き、父・慶喜への複雑な感情を抱きながらも、徳川家の再興を目指した。激動の時代を駆け抜けた二人の人生を通して、日本の近代史を読み解く。
大政奉還 失敗に終わった慶喜の戦略
慶喜の大政奉還の目的は何だった?
徳川家の権力維持
鳥羽・伏見の戦いは、明治維新の象徴的な出来事の一つです。
その背景と結果を詳細に見ていきましょう。
公開日:2022/10/15

✅ 鳥羽・伏見の戦いは、1868年1月27日に発生した、明治新政府と旧幕府勢力との武力衝突の「初戦」で、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍が、徳川慶喜率いる旧幕府軍を破った戦いである。
✅ 鳥羽・伏見の戦いの背景には、新政府による徳川家の排除と、それに抵抗する旧幕府勢力の対立があった。薩摩藩の西郷隆盛は、江戸での挑発行為を通じて、旧幕府勢力を戦闘に巻き込み、戦端を開いた。
✅ 鳥羽・伏見の戦いでは、新政府軍の圧倒的な火力の優位性と、旧幕府軍の士気の低さが勝敗を決定した。特に新政府軍の最新式の武器である西洋式銃器が大きな威力を発揮し、旧幕府軍は大きな損害を受けた。この戦いは、明治維新の大きな転換点となり、日本の近代化への道を大きく前進させた。
さらに読む ⇒(はぐくむ)小学館が運営する乳幼児~小学生ママ・パパのための育児情報メディア出典/画像元: https://hugkum.sho.jp/405847慶喜の戦略は、結果的に失敗に終わりましたが、その決断が日本の近代化に繋がったという側面もありますね。
慶喜は、薩摩藩・長州藩の倒幕を阻止し、徳川家の権力と影響力を維持するため、土佐藩の建白を受け、大政奉還を実行しました。
彼は、公議政体に参加し、徳川家が政治・外交に関与し続けるつもりでしたが、薩摩藩は武力倒幕を続け、朝廷との関係を深めました。
結果として、慶喜の狙いは失敗し、王政復古の大号令により、徳川家は朝敵となり、領地返還、辞官納地を余儀なくされました。
慶喜は大阪城へ退去し、旧幕府軍の暴発を抑え、経済的・戦略的に有利な立場を維持し、朝廷や諸藩に圧力をかけようとしたが、薩摩藩の西郷隆盛が江戸で挑発行為を行い、鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。
大政奉還の裏には、様々な思惑があったんですね。歴史の深さを感じます。
慶喜 時代の転換期における苦悩と功績
徳川慶喜の大政奉還はどんな影響を与えた?
幕藩体制崩壊
慶喜は、幕府の権威を守ろうと様々な施策を講じました。
彼の苦悩と、その功績を詳しく見ていきましょう。

✅ 徳川慶喜は、幕府の長州藩との戦争敗北後、フランスから軍事顧問団を招くなど、幕府の立て直しを図りました。
✅ 一方、大名たちは長州藩の処分と兵庫開港問題を解決するため、幕府に長州藩の処分解除と兵庫開港を説得するよう提案しました。しかし、慶喜は自ら問題を解決し、大名を政局の中枢に介入させませんでした。
✅ 慶喜は自ら兵庫開港問題を解決することで、大名を排除し、幕府の権威を維持しようとしたと考えられます。
さらに読む ⇒テンミニッツ|有識者による話分のオンライン講義(オピニオン)出典/画像元: https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2374徳川慶喜の人生は、激動の時代を象徴していますね。
彼が様々な困難に直面しながらも、生きた姿勢は、現代にも通じるものがあると思います。
徳川慶喜は、第15代将軍として大政奉還を行い、幕藩体制の崩壊に大きく貢献した人物です。
彼は、幼い頃から能力に優れ、将来を嘱望されていました。
しかし、将軍後継を巡る争いに巻き込まれ、安政の大獄で謹慎処分を受けるなど、波乱に満ちた人生を送りました。
1867年、薩摩藩、長州藩との武力衝突が避けられなくなり、朝廷も密勅を出していることを知った慶喜は、土佐藩からの建白書をきっかけに大政奉還を決断しました。
彼は、朝廷に政治権力を返しても、薩摩、長州両藩では諸問題を解決できないと読み、いずれは旧幕府に協力を仰ぐと考えていました。
しかし、大久保利通と西郷隆盛は、王政復古の大号令を発し、旧幕府の権威を完全に失墜させました。
慶喜は、鳥羽伏見の戦いで敗北した後、江戸に引き返して恭順の意を表しました。
彼は、幕府軍の戦力を残しながらも、組織的な行動をとることができず、結果的に幕府の崩壊を招きました。
維新後は、旧幕臣を顧みずに、裕福な生活を送ったため、身勝手な人物という印象を持たれることもありました。
しかし、近年では、戊辰戦争の大規模化を防いだことや、新しい時代の到来を促した功績などが評価されつつあります。
慶喜さんの評価は、時代によって変わるんですね。歴史は多角的に見ることが大切だと改めて感じました。
慶喜 明治時代への歩みと歴史への評価
慶喜の大政奉還は、どんな状況下で行われたの?
複雑な状況下での英断
本記事の締めくくりとして、慶喜の明治時代における足跡と、現代における評価について解説します。

✅ 大政奉還とは、15代将軍徳川慶喜が朝廷・明治天皇に政治を行う権限を返した出来事であり、江戸幕府が終焉を迎えた瞬間でした。
✅ 大政奉還が行われた理由は、討幕派による武力討幕や混乱を防ぐためでした。徳川慶喜は、政治を朝廷に返しても実質的な権力は手中に収め、徳川氏主導の政権を樹立できると考えていました。
✅ 大政奉還に至る背景には、外国勢力の進出による外圧、幕府の権威失墜、尊王攘夷運動の高揚、公武合体の失敗、禁門の変、長州征討など、様々な要因が複雑に絡み合っていました。
さらに読む ⇒日本史事典|受験生のための日本史ポータルサイト出典/画像元: https://nihonsi-jiten.com/taiseihoukan/大政奉還は、確かに様々な要因が複雑に絡み合った結果だったんですね。
慶喜の決断の重みが伝わってきます。
慶喜は、明治時代には公爵となり、貴族院議員に就任するなど、政治の世界にも再び足を踏み入れました。
彼は、渋沢栄一とも深い関係を持ち、晩年は東京で過ごし、1913年に76歳で亡くなりました。
慶喜は、時代の転換期に大きな決断を迫られた人物であり、その功績と失敗は現代でも議論の的となっています。
徳川慶喜による大政奉還は、薩長による倒幕計画や列強による侵略の脅威、そして朝廷の実権掌握能力の不足など、複雑な状況下で行われた英断でした。
土佐藩からの建白書を受け、二条城で40藩の重臣を集結させた慶喜は、薩長との内乱による列強侵略を避けるため、大政奉還を決断しました。
ただし、大政奉還後も実質的な権限は慶喜に残ったままだったため、薩長は容認せず、王政復古の大号令を発布し、戊辰戦争へと繋がりました。
慶喜自身も、朝廷の体制不安定や明治天皇との信頼関係不足を懸念し、大政奉還が内乱を引き起こす可能性を認識していたと考えられます。
当時の混沌とした状況下で、慶喜は難しい決断を迫られ、結果的に戊辰戦争という悲劇を生み出してしまったものの、日本の未来を憂慮する彼の決意は、歴史に刻まれる功績として評価されています。
慶喜さんの人生、本当に波乱万丈ですね。彼の決断が、今の日本を作ったと思うと感慨深いです。
本日は、徳川家達と慶喜、明治維新という大きな転換期を生き抜いた二人の人生についてご紹介しました。
歴史は奥深いですね。
💡 徳川家達は、父慶喜への複雑な思いを抱えながらも、激動の時代を懸命に生きた。
💡 徳川慶喜の大政奉還は、日本の近代化への大きな一歩となった。
💡 明治維新は、多くの人々の苦悩と決断によって実現した。その歴史を多角的に理解することが大切。