平安の才媛、大弐三位(藤原賢子)とは?歌と恋と、その生涯に迫る?紫式部の娘、大弐三位の波乱万丈な人生
紫式部の愛娘、藤原賢子(大弐三位)は、才色兼備の歌人。奔放な恋愛遍歴と情熱的な和歌で、貴公子たちを魅了。ストレートな恋歌から、皮肉を込めた返歌まで、その表現力は圧巻。百人一首にも選ばれた歌は、現代にも響く。80歳まで生き抜き、平清盛へと繋がる血筋。与謝野晶子も注目した『源氏物語』との関係とは? 彼女の波乱万丈な人生と歌の世界へ。
歌人としての才能と晩年の功績
賢子の才能開花に影響を与えたものは?
恋愛と歌
本日は、よろしくお願いいたします。
大弐三位こと藤原賢子の歌人としての才能と、晩年の功績について解説します。
彼女の代表作と、その背景にある物語をご紹介します。
公開日:2024/08/10

✅ この記事は大弐三位という平安時代の歌人の生涯と作品について解説しています。
✅ 大弐三位は藤原道長や藤原公任の子息らと交際し、多くの恋の歌を残したことで知られています。特に有名なのは、百人一首にも収録されている「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」という歌です。
✅ 記事ではこの歌の現代語訳や背景に加え、大弐三位が詠んだ他の有名な和歌や、彼女のゆかりの地についても触れられています。
さらに読む ⇒サライ|小学館の雑誌『サライ』公式サイト出典/画像元: https://serai.jp/hobby/1187230百人一首にも選ばれている歌があるんですね!『有馬山~』の歌は、そういう意味だったのかと感心しました。
賢子の歌には、彼女の感情が凝縮されていて、心に響きます。
賢子は、数々の貴公子との恋愛を経ながら、歌人としての才能を開花させました。
恋愛の歌を多く詠み、そのストレートな表現は『新古今和歌集』や百人一首にも収録されています。
有名な和歌は「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」。
これは、疎遠になった男からの手紙を受けて詠まれた歌で、「どうしてあなたを忘れることができるでしょうか」という皮肉を含んでいます。
賢子は返歌の名手としても知られており、藤原公任の息子との贈答歌や、後冷泉天皇(親仁親王)との歌のやり取りなど、多くの作品を残しています。
彼女の歌が今も残っているのは、本当にすごいですね。歌の内容も、現代の私たちにも共感できる部分があって、興味深いです。当時の恋愛事情についても、もっと知りたくなりました。
晩年の生活と影響
百人一首の作者、賢子はどんな人生を送った?
80歳近くまで生き、平清盛の子孫
本日は、よろしくお願いいたします。
小倉百人一首に収録されている歌と、大弐三位の晩年についてお話しします。
また、平安時代の女性たちの役割についても触れます。

✅ 小倉百人一首に収録された歌の中には、動乱の時代に活躍した歴史上の人物を支えた女房たちの歌が多く含まれており、特に待賢門院堀河、皇嘉門院別当、殷富門院大輔の3人は歌人としても有名です。
✅ これらの女房たちは、主人の身の回りの世話をしたり、教養を活かして主人を楽しませたりする役割を担っていました。
✅ 彼女たちの歌は、激動の時代を生き抜いた人々の心情や、当時の社会情勢を垣間見ることができ、歴史を知る上で貴重な資料となっています。
さらに読む ⇒出典/画像元: https://news.line.me/detail/oa-japaaan/fb1817036267賢子の血筋が平清盛に繋がっているとは、驚きです。
彼女の歌は、時代を超えて人々の心に響き、その感情を伝えているんですね。
賢子は、80歳近くまで生き、その血筋は平清盛へとつながっています。
百人一首に収録されている彼女の和歌は、恋心を巧みに表現したもので、平安時代の貴族社会における和歌の役割と、女性の複雑な感情を表しています。
百人一首に選ばれている歌の背景を知ると、さらに感慨深くなりますね。当時の女性の置かれていた状況や、その感情が表現されている歌は、とても興味深いです。
謎めいた『源氏物語』作者説と魅力的な人物像
与謝野晶子は、賢子が「源氏物語」の作者だと主張した理由は何?
賢子の深い理解と和歌作品の影響
本日は、よろしくお願いいたします。
賢子と『源氏物語』の関係について、考察されている内容についてお話しします。
与謝野晶子の説も紹介します。

✅ 与謝野晶子の「新訳紫式部日記・新訳和泉式部日記」は、大正5年に金尾文淵堂から刊行され、その後、昭和11年から14年にかけて刊行された非凡閣の「現代語訳国文学全集」に再録された。
✅ 本書は、金尾文淵堂版を底本とし、所々に欠字が見られる箇所がある。特に「新訳和泉式部日記」では、底本に比べて欠字が多く、校閲の工程に疎密の差があった可能性がある。
✅ 本書は、底本である金尾文淵堂版が総ルビだったのに対し、読みやすさを考慮し、適宜ルビを省略している。ただし、「母かあ様さん」や「乗者のりて」などの特徴的な表現は残されている。
さらに読む ⇒カドブン−文芸マガジン出典/画像元: https://kadobun.jp/reviews/bunko/entry-60338.html賢子が『源氏物語』の作者かもしれないという説、興味深いですね。
彼女の教養と才能、そして母である紫式部の影響など、色々な要素が絡み合っているんですね。
与謝野晶子は、賢子が『源氏物語』後半の作者であると主張しました。
これは、賢子が『源氏物語』の登場人物や物語の展開に精通していたこと、また、賢子の和歌作品の中に『源氏物語』の言葉遣いや表現が見られることなどが根拠として挙げられています。
賢子は、母・紫式部の影響を受け、優れた教養と和歌の才能を持ち合わせていました。
彼女の人生は、当時の女性の生き方を垣間見れるとともに、歌人としての才能と行動力あふれる魅力的な人物像を私たちに示しています。
『源氏物語』の作者説、初めて聞きました。当時の女性たちが、いかに教養を身につけていたのかが分かります。賢子の生き方は、まさに才色兼備ですね。
大弐三位の生涯、歌人としての才能、そしてその影響力について、改めて深く理解することができました。
彼女の生き方は、現代の私たちにも勇気を与えてくれますね。
💡 大弐三位こと藤原賢子は、平安時代を代表する歌人であり、その生涯は恋愛と歌に彩られていた。
💡 彼女の歌は、現代にも通じる感情を表現し、百人一首にも選ばれるなど、後世に大きな影響を与えた。
💡 激動の時代を生き抜き、その血筋は平清盛へと繋がり、その人生は、まさに波乱万丈であった。