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即身仏(ミイラ)とは?その違いや現代的意義について!(?)即身仏の過酷な修行と信仰、そして現代社会との繋がり

自らの命を捧げ、仏を目指した即身仏。過酷な修行を経てミイラとなった彼らの姿は、死への畏怖を超え、より良く生きる意味を問いかける。飢餓や病に苦しむ人々を救済するため命を懸けた僧侶たちの姿、その信仰と精神を伝える。湯殿山、求菩提山を巡る旅を通して、即身仏の奥深さに迫る。

即身仏とミイラ:その違いと意味

即身仏とミイラ、一体何が違うの?

意志と保存の目的が異なる

即身仏と、外見が似ているミイラ。

しかしその意味合いは全く異なります。

ここでは、両者の違いと、即身仏が持つ意味について考えます。

空海の「即身成仏」
空海の「即身成仏」

✅ 空海が説いた「即身成仏」は、ミイラ化して現世で生き続けることや不死身の救世主になることではなく、現世で生きたまま仏になることである。

✅ 空海は、人が既に成仏しているという第一段階から、修行を通して心身を鍛錬する第二段階へと進むことを説き、輪廻転生を否定しなかったが、「成仏」について独自の解釈を示した。

✅ 空海は、当時最先端の科学を研究し、土木技術者や建築家としても功績を残すなど、科学的な視点も持ち合わせており、「即身成仏」を現代人の哲学にも通じる概念として捉えていた。

さらに読む ⇒秋里籬島出典/画像元: https://sightsinfo.com/koyasan-yore/sokushin_jobutsu

即身仏とミイラの違いは、目的と過程にあります。

即身仏は、自らの意思で仏となることを目指した点が特徴的ですね。

即身仏と外見が似ているものに、ミイラがあります。

しかし、両者の意味合いは全く異なります。

ミイラは病気や事故で死亡した遺体を保存処理したもの、または自然にミイラ化したものであり、古代エジプトでは来世での復活を願って作られました。

一方、即身仏は自らの意思で修行し、仏となることを目指したものです。

彼らの存在は、真言密教の「即身成仏」という概念と関連していると考えられますが、両者は異なります。

即身成仏は、生きたまま肉体を持って仏となることで、肉体を保存する即身仏とは異なります。

空海は、肉体のまま大日如来と一体になり、輪廻を超越することを目指しました。

即身仏は、空海の伝説に影響を受けていると考えられますが、その意味合いは解釈が分かれます。

終末期患者が死を受け入れるように、肉体を残さずとも成仏は可能であるという解釈も存在します。

空海の「即身成仏」の解釈が、現代の哲学にも通じるというのは、興味深いですね。

即身仏に魅せられた人々:信仰と探求

なぜ即身仏は崇敬される?その魅力とは?

成仏への憧憬と、過酷な修行への敬意。

即身仏に魅せられた人々は、その姿に何を求めたのでしょうか。

ここでは、即身仏に対する信仰と、その探求について掘り下げます。

山形県の「即身仏」と湯殿山の「生まれ変わり信仰」

公開日:2025/01/28

山形県の「即身仏」と湯殿山の「生まれ変わり信仰」

✅ 即身仏は、自ら厳しい修行を経て命を絶ち、永遠の姿を保つために作られたもので、ミイラとは異なり自らの意思で入定することが特徴です。

✅ 山形県は即身仏が多く安置されており、湯殿山信仰の影響で特に多く存在します。現在公開されているのは6寺院と個人所有の寺院になります。

✅ 湯殿山注連寺には鉄門海上人の即身仏が安置されており、ミシュランガイドで2つ星を獲得しています。

さらに読む ⇒Home出典/画像元: https://jp.neft.asia/archives/21609

即身仏を目の当たりにした著者の体験は、非常に興味深いですね。

死への恐怖を克服し、その意味を探求する姿に共感します。

即身仏が崇敬される理由は、即身成仏への憧憬や、過酷な修行を通して仏に近づこうとした姿への敬意にあると考えられます。

特に山形県の出羽三山周辺、庄内・置賜地方には多くの即身仏が存在し、江戸時代には、湯殿山信仰の拠点となった寺院が護持していました。

著者は、幼少期に見た雑誌のミイラの写真に強い衝撃を受け、死の恐怖と即身仏への探求心を抱き、その現物を見る旅に出ました。

湯殿山と福岡県の求菩提山を訪れ、注連寺と大日坊で即身仏を目の当たりにし、その姿を通して、死の恐怖の克服と、その行為の深い意味を探求しました。

山形県鶴岡市の注連寺には鉄門海上人のミイラが祀られており、大日坊では、天明の飢饉を救済するために入定した真如海上人のミイラを祀っている。

即身仏の存在は、人々に様々な感情を抱かせるものですね。その姿への敬意や、探求心は理解できます。

未来への祈り:即身仏の現代的意義

即身仏の精神は、現代の私たちに何を教えてくれる?

困難を乗り越え、より良く生きる勇気。

現代において、即身仏となることは法律に抵触する可能性があります。

しかし、その信仰と精神は今もなお、人々の心を揺さぶります。

日本最古の即身仏(ミイラ仏)を拝みに行く「西生寺(1)・弘智上人」【新潟】

公開日:2021/06/17

日本最古の即身仏(ミイラ仏)を拝みに行く「西生寺(1)・弘智上人」【新潟】

✅ 新潟県長岡市の西生寺には、約650年前の日本最古の即身仏である弘智法印即身仏が安置されており、3000日間の厳しい修行の末に入定されました。

✅ 弘智法印即身仏は、鎌倉時代に生まれ全国を巡り寺院を建立した弘智上人が、60代でこの地に来て3000日の厳しい修行を行い、70歳前後で入定した姿です。

✅ 本物の即身仏は写真撮影禁止だが、実物大の木造が安置されており、出開帳での破損・紛失を防ぐために作られたもので、弘智上人の身長は179cmもあったことが判明しています。

さらに読む ⇒日本珍スポット100景出典/画像元: https://bqspot.com/koushinetsu/nigata/23589

弘智法印即身仏の存在は、時を超えて現代の私たちに勇気を与えてくれますね。

新型コロナウイルス感染症の終息を願う気持ちにも心を打たれます。

現代において、即身仏となることは法律に抵触する可能性がありますが、その信仰と精神は今もなお、人々の心を揺さぶります。

弘智法印即身仏は、約660年前に土中に入定した鎌倉時代生まれの僧侶で、日本最古の即身仏として知られています。

また、新潟県村上市の観音寺に安置されている佛海上人は1903年に入定し、著者は佛海上人の即身仏に新型コロナウイルス感染症の終息を祈りました。

即身仏の存在は、私達に死と向き合い、より良く生きることの意味を問いかけます

その過酷な修行を通して仏に近づこうとした姿は、現代を生きる私たちにも、困難を乗り越え、より良く生きようとする勇気を与えてくれるでしょう。

即身仏の存在は、現代社会においても、死生観を考えさせられる良い機会になりますね。

本日は、即身仏について、その定義から歴史的背景、そして現代における意味合いまでを幅広くご紹介しました。

🚩 結論!

💡 即身仏とは、自ら仏となることを目指し、厳しい修行を経てミイラとなった僧侶のこと。

💡 即身仏とミイラの違いは、その目的と過程にあり、即身仏は自らの意思で仏になることを目指した。

💡 即身仏は、現代社会においても死生観や生き方を考える上で示唆に富む存在。