Gone Hidden Logo Menu opener

二条城ってどんなお城?家康、慶喜、そして大政奉還…歴史の舞台となった二条城の秘密に迫る?徳川家の栄枯盛衰と日本の近代化を映す城

1603年、徳川家康が築いた二条城は、江戸幕府の象徴。将軍宣下の舞台となり、豪華絢爛な姿で後水尾天皇の行幸を迎えた。幕末には大政奉還の舞台となり、激動の時代を見守った。徳川家の権威と時代の変遷を伝える、歴史の証人。日本の歴史を彩る二条城の魅力を、その目で確かめて。

二条城ってどんなお城?家康、慶喜、そして大政奉還…歴史の舞台となった二条城の秘密に迫る?徳川家の栄枯盛衰と日本の近代化を映す城

📘 この記事で分かる事!

💡 徳川家康が築城し、江戸幕府の始まりを象徴する場所。将軍宣下の儀式が行われ、徳川家の権威を示す。

💡 後水尾天皇の行幸が行われ、朝廷との融和を象徴する場として、豪華絢爛な姿へと改修された。

💡 大政奉還が行われ、江戸幕府の終焉と明治維新への転換点となった場所。歴史の転換期を見守った。

本日は二条城について、その歴史的背景や重要な出来事を通してご紹介します。

それでは、まず二条城について重要なポイントを3つにまとめました。

始まりの城:家康の決意と二条城の誕生

徳川家康が二条城を築いた目的は?

徳川幕府の確立と武威を示すため。

二条城は、1603年に徳川家康によって築かれました。

天皇の監視、西国大名の抑え、そして徳川家の権威を示す目的がありました。

江戸幕府が開かれる以前から、既にその姿を現していたのです。

徳川家康と二条城 ~京都から眺める江戸時代~【前編】

公開日:2023/09/09

徳川家康と二条城 ~京都から眺める江戸時代~【前編】

✅ 二条城は、徳川家康が天皇の監視と西国大名の監視、そして徳川家の武威を示すために、江戸幕府が成立する以前に京都に建設した。

✅ 二条城は、関ヶ原の戦い後の徳川家康が天下を掌握する過程で、豊臣家との対立が続く中、徳川家の権威を示す拠点として機能した。

✅ 江戸幕府は二条城で始まり、家康の将軍就任や秀忠への将軍職継承など、初期は京都を重視し、二条城が重要な役割を果たした。

さらに読む ⇒゛伝えたい京都、知りたい京都〜Kyoto出典/画像元: https://kyotolove.kyoto/I0000553/

家康が二条城を築城し、将軍宣下の儀式を行ったことは、徳川幕府の始まりを象徴する重要な出来事ですね。

豊臣家との対立が続く中で、自らの権威を示す必要があったのでしょう。

時は1603年、天下泰平を願い、徳川家康は京都御所の守護と将軍の上洛時の宿泊所として、二条城の築城を開始しました

関ヶ原の戦い後の不安定な情勢下で、家康は豊臣家との対立を見据え、徳川政権の確立を目指していたのです。

この城は、朝廷や西国大名の監視、そして徳川家の武威を示す「江戸幕府京都支社」としての機能を持ち、その象徴として、二条大路にその姿を現しました。

家康は、二条城で将軍宣下の儀式を行い、江戸幕府の誕生を世に示し、将軍職を秀忠に譲り徳川家による世襲と天下の支配を明確にしました。

この二条城の建設は、織田信長、豊臣秀吉の時代が終わりを告げ、江戸幕府が始まる象徴的な出来事となったのです。

司会の方、丁寧な解説ありがとうございます!家康が二条城を築いた背景には、様々な思惑があったんですね。まるで戦略ゲームのようです!

絢爛たる行幸:二条城の華麗なる変貌

二条城、後水尾天皇の行幸で何が変わった?

大規模改修で豪華絢爛な姿に!

1626年の寛永行幸は、二条城の歴史において非常に重要な出来事の一つです。

天皇と将軍の融和を示す華やかな儀式が行われました。

二条城は、この行幸を機に、その姿を大きく変貌させました。

寛永行幸とは

公開日:2025/08/18

寛永行幸とは

✅ 1626年、徳川将軍が後水尾天皇を二条城に招いた寛永行幸は、天皇と将軍の融和と平和を象徴する行事で、5日間にわたり豪華な饗応が行われました。

✅ 行幸には、天皇、中宮和子をはじめとする皇族、朝廷の公家衆、そして徳川家光ら幕府の重臣が多数参加し、舞楽や和歌、能楽などが催されました。

✅ 寛永行幸は、徳川秀忠や徳川家光による金品の献上、天皇による天守閣への訪問、そして天皇から将軍への酒杯授与など、朝廷と幕府の融和を示す様々な儀式が行われた一大イベントでした。

さらに読む ⇒寛永行幸四百年祭特設サイト出典/画像元: https://livinghistory-kyoto.com/about/

寛永行幸は、朝廷と幕府の関係が安定していく過程を象徴していますね。

大規模な改修が行われ、二条城がより豪華になったことからも、その力の入れようが分かります。

時が流れ、二条城は徳川家康の死後もその重要性を保ち続けました。

1626年には、後水尾天皇の行幸という華やかなイベントが開催され、二条城は大きく姿を変えます。

秀忠(家光の父)の計画のもと、豊臣秀吉の聚楽第への行幸を超えようと大規模な改修が行われました

東西約500m、南北約400mに拡張され、二の丸御殿の改築、行幸御殿や本丸御殿の増設、天守の新造などが行われ、その豪華絢爛な姿は、二条城行幸図屏風に描かれました。

参列者の華やかな衣装は、当時の文化交流の活発さを物語り、二条城の都市デザインがヨーロッパのヴィスタの概念を取り入れていることからも、海外との交流が盛んだった時代の名残が伺えます。

わあ、すごい!行幸の様子が目に浮かぶようです。当時の人々の衣装や文化交流についても、もっと詳しく知りたいです!

次のページを読む ⇒

幕末、二条城は徳川慶喜が大政奉還を決意した舞台。激動の時代を象徴し、明治維新へと繋がる。歴史の証人、二条城の物語。