児玉光雄さんの88年の生涯:被爆体験を語り続けた証言とは?被爆者の児玉光雄さんの生涯を辿る
12歳で被爆、奇跡的に生還した兒玉光雄さんの壮絶な人生。爆心地800mで経験した地獄、20回以上のがん手術…それでも核兵器の恐ろしさを世界に伝え続けた。被爆体験証言者として、修学旅行生や海外の人々に訴え、平和を願った。広島大学医学資料館で開催された企画展「被爆者を生き抜く」で、その記録を辿る。苦難を乗り越え、未来へ希望を繋いだ兒玉さんの姿。
闘病と証言:被爆体験を語り継ぐ生涯
兒玉さんの壮絶な体験とは?被爆後、何を訴えた?
20回以上のがん手術と核兵器の恐ろしさ。
児玉さんは、被爆体験を語り継ぐために、生涯をかけて活動しました。
被爆者の証言が持つ力と、その重要性について考えます。

✅ 被爆者は、核兵器廃絶を訴えるために自身の体験を証言し続けている。
✅ 被爆者の「人間として」重ねた言葉は、人々の心を揺さぶり、行動を促す力を持っている。
✅ 広島への原爆投下から80年を迎え、当事者の貴重な声をどのように繋いでいくかが重要である。
さらに読む ⇒山陽新聞デジタル|さんデジ出典/画像元: https://www.sanyonews.jp/article/177237720回以上のがん手術を経験し、被爆後遺症と闘いながら、核兵器の恐ろしさを訴え続けた児玉さんの生き様は、まさに圧巻ですね。
兒玉さんは、原爆投下後、20回以上のがん手術を経験し、被爆後遺症と闘いながら懸命に生きました。
広島大学を卒業後、役場などで勤務しましたが、60歳を過ぎてからは、大腸、胃、皮膚、甲状腺、腎臓など、複数の癌に苦しみます。
しかし、その壮絶な体験を胸に、被爆者として、核兵器の恐ろしさを世界に訴え続けることを決意。
2010年からは広島平和文化センターの被爆体験証言者として、修学旅行生や海外の人々に自身の体験を語り、核兵器の非人道性を訴えました。
核兵器廃絶を訴えるために、自らの体験を証言し続けるというのは、並大抵のことではないでしょう。その活動が、人々の心を揺さぶり、行動を促す力となることに感銘を受けます。
資料が語る真実:企画展「被爆者を生き抜く」
広島原爆展、児玉さんの証言活動の原点は?
学友への思いです。
児玉光雄さんの生涯を、資料を通して振り返ります。
企画展「被爆者を生き抜く」から、伝わるものとは。
公開日:2023/05/16

✅ 広島市南区の広島大医学部医学資料館で、被爆者である児玉光雄さんの遺した資料からその人生をたどる企画展が開催されている。
✅ 児玉さんは12歳で被爆し、晩年まで放射線による健康被害を訴え、20回以上の手術を受けながらも被爆体験を語り続けた。
✅ 児玉さんの書斎に残されていた500点以上の資料のうち、約100点が展示されており、その生涯を垣間見ることができる。
さらに読む ⇒ニュースサイト出典/画像元: https://mainichi.jp/articles/20230516/ddl/k34/040/336000c児玉さんの遺した資料からは、被爆体験を語り続けた児玉さんの生涯が鮮やかに浮かび上がってきます。
展示を通して、改めて平和の大切さを感じます。
兒玉さんの遺族が広島大学原爆放射線医科学研究所に寄託した500件以上の資料をもとに、広島大学医学部医学資料館で企画展「被爆者を生き抜く」が開催されました。
展示では、児玉さんの証言原稿、病気の記録、旧制広島一中の名簿、友人への手紙など、約100点の資料が公開されています。
被爆初期のクラス写真や同級生の遺族の手記からは、学友への思いが証言活動の原点にあったことが読み取れます。
60歳を過ぎてからの診断記録や、亡くなる4年前に米国で証言した際の英文原稿も展示され、生涯にわたる健康被害と証言への熱意が示されています。
児玉さんの証言原稿や病気の記録など、貴重な資料が展示されているんですね。学友への思いが証言活動の原点にあったというエピソードにも、心を打たれます。
児玉光雄さんの生涯は、被爆の悲劇を語り継ぎ、平和を願う希望そのものでした。
その生きた証を、私たちはしっかりと受け継いでいくべきですね。
💡 被爆体験を証言し、核兵器の非人道性を訴え続けた。
💡 20回以上のがん手術を経験し、壮絶な人生を生き抜いた。
💡 資料館での展示や証言活動を通して、記憶を未来へ繋いだ。