『脱亜論』とは?福沢諭吉の思想と日本の近代化への影響とは?福沢諭吉『脱亜論』に見る、アジア観と近代化への道
福沢諭吉の『脱亜論』は、1885年発表。西洋文明への傾倒とアジアからの脱却を説き、近代化を目指す日本の進むべき道を提示。清や朝鮮を批判し、国際社会での日本の地位向上を願った。その思想は、現代でもアジアとの関係性において議論を呼ぶ。近代化を麻疹に例え、西洋文明を取り入れる重要性を訴えた福沢の思想とその背景とは。
💡 『脱亜論』は福沢諭吉によって執筆され、日本が西洋文明を取り入れ、アジアから脱却すべきと主張。
💡 福沢諭吉は、清や朝鮮の近代化の遅れを批判し、日本が西洋列強と肩を並べる必要性を説いた。
💡 『脱亜論』は近代日本の指針となり、その後の日本の外交や国際関係に大きな影響を与えた。
それでは、福沢諭吉の『脱亜論』について、詳しく見ていきましょう。
脱亜論の主張と背景
福沢諭吉の「脱亜論」の主張は?
西洋文明導入による近代化
本日は福沢諭吉の『脱亜論』についてです。
まずは、その内容と背景から見ていきましょう。

✅ 脱亜論とは、1885年(明治18年)に掲載された新聞社説で、西洋文明を受け入れることでアジアから脱却し、西洋諸国と肩を並べるべきだと主張したものです。
✅ 脱亜論は、当初無署名でしたが、後に福沢諭吉の著作集に収録されたことから、福沢諭吉が執筆したと考えられるようになりました。そのため、脱亜論は福沢諭吉の主張として認識されることが多いです。
✅ 脱亜論は、日本がアジア諸国を抜き、西洋文明に追いつくために、アジア的な価値観や制度から脱却する必要性を訴え、当時の日本が近代化を進めるための指針として捉えられていました。
さらに読む ⇒日本史事典|受験生のための日本史ポータルサイト出典/画像元: https://nihonsi-jiten.com/datuaron/福沢諭吉の思想は、日本の近代化を加速させる上で重要な役割を果たしました。
1885年3月16日に掲載された新聞社説『脱亜論』は、福沢諭吉が執筆したと考えられており、彼の代表的な思想として知られています。
内容は、アジア諸国から脱却し、西洋文明を取り入れて近代化すべきだという主張でした。
当時、西洋文明を受け入れずに伝統的な価値観を守っていた清や朝鮮を批判し、日本が西洋諸国と肩を並べることを目指す必要性を説いています。
脱亜論は、日本の近代化における西洋文明の影響を重視する一方、アジア諸国との関係性を軽視したとも捉えられ、現代でも議論の対象となっています。
『脱亜論』は、当時の日本の置かれた状況を的確に捉え、西欧への追いつきを急ぐ必要性を説いた点が興味深いですね。
西洋文明と近代化
脱亜論は、日本がどのようにすべきだと主張している?
西洋文明導入、近代化
次に、福沢諭吉がなぜ『脱亜論』を唱えたのか、その背景を探ります。
公開日:2021/06/20

✅ 福沢諭吉が1885年3月に発表した「脱亜論」は、清や朝鮮の開明を待つ時間的余裕がないと主張し、西洋列強に倣って自立すべきであると論じました。
✅ 朝鮮の改革派への期待が甲申事変で打ち砕かれたことを背景に、日本の近代化を優先し、西洋文明を取り入れて独立を維持すべきだと主張しました。
✅ この主張は、西洋列強による東アジア分割への参加という、当時の日本における国権論に与するものであり、清との対決を加速させる要因となりました。
さらに読む ⇒世界の歴史まっぷ世界史用語を国・時代名・年代・カテゴリから検索出典/画像元: https://sekainorekisi.com/glossary/%E8%84%B1%E4%BA%9C%E8%AB%96/西洋文明の重要性を強調し、日本の近代化を急ぐ必要性を説いた点が印象的です。
『脱亜論』は、西洋文明が東へ伝播し、もはや防ぎようがない状況を、麻疹のようなものだと例えています。
日本は、西洋文明を積極的に取り入れ、近代化を推進すべきだと主張しています。
また、中国や朝鮮が伝統的な価値観にとらわれ、改革を行わないことを批判し、アジア諸国との関係を断絶し、西洋文明国と歩むべきだと訴えています。
西洋文明を取り入れることで、日本がどのように発展していくのか、とても興味深いですね。
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福沢諭吉の『脱亜論』を読み解く。朝鮮近代化への期待、清国の圧力、そして金玉均の悲劇…福沢の憤りが生んだ思想とは?日本の未来を憂いた彼の vision を紐解きます。