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藤原顕光とは?~出世争い、道長との確執、呪詛…その生涯とは?~『光る君へ』で描かれる藤原顕光の悲哀

藤原顕光、道長の影に隠れた男。良家の子息ながら、無能と嘲笑され、権力闘争に翻弄された悲劇の貴族。娘の死、呪詛の噂、そして「悪霊左府」という不名誉なレッテル…。『光る君へ』では宮川一朗太が演じる、掴みどころのない彼。その複雑な生涯と、道長との確執を、ドラマと史実から読み解く。

顕光の怨念と道長への呪詛

藤原顕光は、道長にどんな感情を抱いていたのでしょうか?

怨念と恐怖

この章では、顕光の怨念と道長への呪詛について掘り下げていきます。

光る君へ】藤原道長、許すまじ!夫婦の絆を引き裂かれ絶望の内に世を去った藤原顕光の娘・延子の悲劇
光る君へ】藤原道長、許すまじ!夫婦の絆を引き裂かれ絶望の内に世を去った藤原顕光の娘・延子の悲劇

✅ 藤原延子は道長の策略によって婚約者を奪われ、失意のうちに亡くなりました。

✅ 延子の死後、顕光も悲しみに暮れて亡くなり、延子と顕光は怨霊となって道長一族を祟りました。

✅ 延子は道長の野望によって犠牲になった一人であり、その悲劇は道長にも深い影を落としました。

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怨念が呪詛へと変わっていく様子は、まるで人間の業のようなものを感じます。

道長の台頭によって、多くの人が翻弄された時代だったのでしょう。

藤原顕光は、藤原道長に長く仕えながら、度々その無能を嘲笑され、道長の息子・頼通からも嫌がらせを受けてきた。

しかし、道長が左大臣を辞任し、顕光が左大臣に昇格すると、道長に対する怨念を抱き、頼通に執拗に嫌がらせをするようになった。

顕光は娘を東宮・敦明親王に嫁がせていたが、三条院の崩御後、敦明親王は東宮の座を返上し、道長派に鞍替え。

道長の娘・寛子が敦明親王に嫁ぐことになり、顕光の娘・延子は見捨てられてしまった。

延子はショックのあまり病床に伏せ、一説には顕光が延子の髪を切って寛子の呪詛に使ったともいわれている。

顕光は道長の「太鼓持ち」を演じながら、道長を呪い続けたとされ、道長とその娘たちの天敵として恐れられていた

呪詛の話が出てくると、平安時代の闇の部分が見えてきますね。歴史の教科書では学べない、人間ドラマを感じます。

顕光の官歴と晩年

藤原顕光はどんな人物だった?

無能な公卿

この章では、顕光の官歴と晩年について振り返ります。

道長に恨みを募らせ「悪霊左府」と呼ばれた藤原顕光
道長に恨みを募らせ「悪霊左府」と呼ばれた藤原顕光

✅ この記事は、平安時代の貴族、藤原顕光の生涯を、彼の家系、政治的な立場、そして個人的な悲劇に焦点を当てて解説しています。

✅ 藤原顕光は、権力者でありながら、政治的な野心や才能に欠けており、家柄だけで出世した人物として、周囲から嘲笑の対象とされていたことがわかります。

✅ 特に、彼の娘・延子の不幸せな結婚と、長女・元子の駆け落ち事件は、顕光の人生における大きな悲劇であり、彼の無力さを示す象徴的な出来事として描かれています。

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藤原顕光は無能と評され、晩年も不遇だったようですね。

道長との対比で、さらにその悲劇性が際立ちます。

藤原顕光は、平安時代中期の公卿で、関白太政大臣の藤原兼通の長男として生まれました。

家柄の良さから出世し、参議にまで昇進しましたが、父・藤原兼通の死後、権力を握った藤原兼家とその子達に追い抜かされ、出世は止まりました。

無能で知られており、藤原実資の日記「小右記」にも酷評されています。

後宮対策にも失敗し、藤原道長に権力を奪われてしまいました。

晩年は左大臣として出仕を続けましたが、1021年に死去しました。

藤原顕光は藤原道長の一族から恐れられる怨霊「悪霊左府」として語り継がれています。

無能と評されてしまうのは、本人的には辛かったでしょうね。歴史の評価というのは、残酷な面もありますね。

『光る君へ』における藤原顕光

藤原顕光はどんな人生を送った?

権力争いに翻弄された

この章では、ドラマ『光る君へ』における藤原顕光について見ていきます。

藤原延子:「光る君へ」人物事典

公開日:2024/10/14

藤原延子:「光る君へ」人物事典

✅ 藤原顕光 の次女である延子は、父の摂関を夢見て、三条天皇の皇子である敦明親王と結婚しました。

✅ 敦明親王は後に後一条天皇の東宮となり、延子は未来の天皇の妻、そして次の天皇の母になる可能性もありましたが、道長の妨害により、敦明親王は東宮の座につけませんでした。

✅ 延子の夢は叶わず、彼女は敦明親王が東宮を辞退した後に亡くなりました。

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ドラマでは、藤原顕光の人間的な側面も描かれるのでしょうか。

道長との関係や、娘たちとの関係性がどのように描かれるのか、注目したいですね。

9月29日放送の『光る君へ』第37回「波紋」では、藤式部が里帰りし、娘の藤原賢子との関係が描かれました。

一方、藤原道長は、政敵・藤原伊周の台頭に警戒を強めていました。

藤式部は、中宮・藤原彰子の命により、自身の物語を美しく装飾した冊子を作成し、一条天皇への手土産として献上しました。

その後、彰子の許しを得て里帰りした藤式部でしたが、娘の賢子との間には深い溝がありました。

賢子は、母の豪奢な暮らしぶりを許すことができず、二人の関係は改善されませんでした。

一方、藤原顕光は、華々しい家柄を持つものの、無能と嘲笑され、権力争いに翻弄される人生を送っていました。

権力者である藤原道長とは従兄弟の関係であり、対立していました。

顕光は、一条天皇の外戚になることを目指しましたが、娘の元子が子供を産めなかったため、計画は失敗に終わりました。

さらに、長女の元子が源頼定と密通したことが発覚し、激怒した顕光は元子を無理やり出家させました。

しかし、元子は頼定と駆け落ちし、その後、2人の子供をもうけました。

顕光にとって最大の悲劇は、次女である延子の結婚でした。

延子は三条天皇の第一皇子である敦明親王と結婚しましたが、道長の圧力で敦明親王は東宮を辞退せざるを得ませんでした。

さらに、道長は三女の寛子を敦明親王と結婚させ、延子は夫の寵愛を失い、悲しみに暮れました。

顕光は、家柄は良いものの、自身の実力不足と周囲の策略により、人生の晩年まで苦悩し続けることになりました。

藤原顕光は、藤原道長より年長で、儀式での失敗などにより無能と評されることもあった公卿です。

しかし、競争相手が早く亡くなったことで、道長の政権下でナンバー2の座に就きました。

家柄が良く、26年間大臣を務めたものの、朝儀の執行に疎く、道長や藤原実資から批判されていました。

後宮対策でも失敗し、道長に祟ったと伝えられています。

藤原顕光は、除目の際に平維衡を強引に国司に任命するなど、権力を行使する場面も見られました。

78歳で亡くなりました。

ドラマでは、歴史上の人物がどのように描かれるのか、いつも楽しみです。藤原顕光の人間的な部分にも期待したいですね。

藤原顕光の生涯は、道長の台頭によって翻弄された、悲劇的なものだったと言えるでしょう。

ドラマでの描かれ方も楽しみですね。

🚩 結論!

💡 藤原顕光は、藤原兼通の長男として生まれ、若くして官位を重ねるも、道長の台頭により不遇の晩年を送る。

💡 道長への対抗心から、娘の入内を画策するも失敗。呪詛の噂も立つなど、波乱万丈な人生を送る。

💡 ドラマ『光る君へ』では、どのような人物として描かれるのか、注目が集まる。