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飛脚ってどんな人?東海道を駆け抜けた江戸時代の情報伝達システムとは?江戸時代の情報伝達を支えた飛脚の歴史と東海道

江戸時代の情報インフラを担った飛脚。公用の継飛脚から、民間利用の町飛脚まで、人々の生活を支えた。リレー形式での手紙や荷物の運搬は、現代の駅伝のルーツとも言える。東海道を駆ける姿は浮世絵にも描かれ、まさに歴史のロマン。その速度、料金、そして人々の歩き方まで、現代とは異なる世界を紐解く。

飛脚ってどんな人?東海道を駆け抜けた江戸時代の情報伝達システムとは?江戸時代の情報伝達を支えた飛脚の歴史と東海道

📘 この記事で分かる事!

💡 江戸時代、飛脚は手紙や荷物を運ぶだけでなく、情報伝達という重要な役割を担っていました。

💡 飛脚には、幕府公用の継飛脚、大名飛脚、町飛脚の3種類があり、それぞれ役割が異なりました。

💡 東海道を舞台に、飛脚はリレー形式で情報を運び、最速で江戸~京都間を3日で走破しました。

それでは、江戸時代の情報伝達の要であった飛脚について、詳しく見ていきましょう。

江戸時代の物流を支えた飛脚

江戸時代の飛脚はどんな役割を果たしていた?

郵便と宅配業者

日本史における飛脚の歴史は、古代から始まり、時代とともにその役割を変遷させてきました。

飛脚
飛脚

✅ この記事は、日本史における「飛脚」の歴史について、古代から安土桃山時代までの変遷を国史大辞典、日本国語大辞典、日本大百科全書などの資料を引用して解説しています。

✅ 古代では、律令国家の駅制において、官公庁間の連絡に使われた飛駅使は、専使であり、途中交替せず、官位は問われませんでした。鎌倉時代以降は、幕府や六波羅探題が飛脚を用い、飛脚は専使として馬を継ぎながら手紙や物品を運搬しました。

✅ 室町時代以降は、戦国大名間の連絡や情報伝達に飛脚が用いられ、特に戦国時代には、領国外への書状や交渉の際に、恩賞として土地関銭・役免除が与えられるなど、重要な役割を果たしていました。安土桃山時代には、豊臣秀吉による政治的統一に伴い、駅制が整備され、飛脚による情報伝達がさらに活発化したと考えられます。

さらに読む ⇒ジャパンナレッジ出典/画像元: https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1715

古代から安土桃山時代まで、飛脚は様々な使われ方をしていました。

時代背景とともに変化していく様子が興味深いです。

江戸時代の飛脚は、書類や金銭、貨物を運ぶ仕事に従事した人や業者を指し、当時の郵便と宅配業者を合わせたような存在でした。

飛脚は、大きく3つの種類に分けられます。

1. 継飛脚は、幕府が運営した公用の飛脚で、主要都市間で公用文書を運搬していました。

2人1組でリレー形式で人馬を交代し、最優先に運行され、一般人よりも特権的な扱いを受けていました。

2. 大名飛脚は、大名たちが私設で使用した飛脚で、国元と大阪、江戸の藩邸を結ぶ役割を担っていました。

有名なものに、七里飛脚や江戸三度などがあります。

3. 町飛脚は、一般の武士や庶民が使用した飛脚で、民間が運営した飛脚屋が走らせていました

江戸・大阪・京都を結ぶ「三度飛脚」や、東海道を6日で往復した「定六」などがあり、さらに機能が分化して金銭を扱う「金飛脚」や米の情報を伝える「米飛脚」なども生まれていました。

飛脚は人馬を用いていましたが、主に人が走って運搬していました。

これは、当時の馬は現代のように整備されておらず、長距離を走らせるには限界があったためです。

また、馬は高価で維持費もかかったため、人の方が経済的だったと考えられます。

飛脚は、当時の重要な通信手段であり、情報伝達や経済活動に大きく貢献していました。

特に、町飛脚の発展は、民間の経済活動を活性化させる役割を果たしたと考えられます。

その後、明治時代に入ると、郵便制度が整備され、飛脚は徐々にその役割を終えていきました。

しかし、江戸時代の飛脚は、日本の歴史における物流と情報伝達の重要な役割を果たしたことを忘れてはなりません。

飛脚の歴史は、まるで日本の通信インフラの歴史そのものですね。専門的な説明、大変勉強になりました。

東海道と飛脚

江戸時代の東海道、旅のスピードは?

飛脚なら3日!

江戸時代、継飛脚はまさに超高速通信手段でした。

そのスピードは驚くべきもので、当時の人々の生活に大きく影響を与えたことでしょう。

江戸時代の飛脚がハンパない!江戸から京都をわずか3日で走破していた幕府公用の継飛脚とは?
江戸時代の飛脚がハンパない!江戸から京都をわずか3日で走破していた幕府公用の継飛脚とは?

✅ 江戸時代に存在した「継飛脚」は、幕府公用の重要な文書を運ぶために、リレー形式で日本全国を駆け巡る超高速な飛脚でした。

✅ 彼らは、夜間の関所通過、増水した河川渡河の許可など、特別な特権を与えられており、江戸から京都まで約500kmを60〜80時間で走り抜けるほどの速さを誇っていました。

✅ 継飛脚の速さは、人力だけで江戸から京都まで最短3日で手紙が届いたという事実に裏付けられ、そのスピードはまさに伝説的と言えるでしょう。

さらに読む ⇒日本文化と今をつなぐウェブマガジン出典/画像元: https://mag.japaaan.com/archives/229355

江戸から京都まで3日で手紙が届くというのは、現代では考えられない速さですね。

当時の人々の情報への渇望が伝わってきます。

東海道は江戸時代に整備された江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ全長約490kmの街道です。

参勤交代や幕府の情報収集のために整備され、53の宿場が設けられました。

文化文政の頃には庶民の旅行ブームが到来し、多くの人が行き交う賑やかな街道となりました。

宿場では、宿泊所や人馬の継立に加え、通信業務も重要な役割を果たしていました。

その通信業務を担っていたのが「飛脚」です。

飛脚は、幕府公用の継飛脚、各大名専用の大名飛脚、民間の町飛脚の3種類があり、現代の郵便屋さんや宅配業者と同じ役割を果たしていました。

また、幕府への情報提供も重要な役割を担っており、配達中に異常事態を察知した場合は、幕府へ報告する義務がありました。

一般の人は江戸から京都まで約2週間かけて旅をしていました。

一方、飛脚は最速で3日間で江戸と京都間を走破することができました。

これはリレー方式によるもので、各宿場に待機している仲間に情報を引き継ぎ、昼夜を問わず走り続けることで実現しました。

飛脚の料金は、距離や速度によって異なり、最安値の並便りでは1か月ほどかかり、料金は書面1通100文(現在の価値で約3000円)でした。

最速の四日限仕立飛脚では、40万円以上もかかることもありました。

継飛脚の存在は、まるで現代の高速通信網のようです。当時の人々の知恵と工夫に感動しました。

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