支倉常長と慶長遣欧使節:日本とスペイン、ローマ教皇との外交劇とは?伊達政宗の密命:支倉常長と知られざる外交の裏側
時は17世紀初頭。伊達政宗の命を受け、支倉六右衛門常長は遣欧使節として海を渡った。目的は通商交渉と宣教師派遣、そして秘められた野望とは? 異国の地で見たものは、栄光か、それとも…。常長を巡る、政宗の思惑、キリスト教の影、そして徳川幕府の策略が絡み合う、波乱万丈の冒険譚! 200年の時を超え、今、歴史の舞台が再び開かれる。
慶長遣欧使節の航海とヨーロッパでの活動
伊達政宗の遣欧使節は、何を求めてヨーロッパへ旅立った?
通商許可
ここでは、慶長遣欧使節の航海の様子や、ヨーロッパでの活動について詳しく見ていきましょう。

✅ 伊達政宗は、スペインとの同盟締結による軍事力獲得を目的として、メキシコとの通商交渉と欧州への宣教師派遣を名目に支倉常長らを使節として派遣しました。
✅ 徳川家康は、スペインとの関係改善と金銀の技術獲得を期待し、伊達政宗の使節派遣を許可しました。
✅ 支倉常長は、伊達政宗の命により、使節団の責任者として派遣されました。しかし、スペインとローマ教皇は、日本のキリシタン弾圧の実態を知っており、伊達政宗の二枚舌を見抜いていました。その結果、使節団は目的を達成することができませんでした。
さらに読む ⇒世界史の窓出典/画像元: https://www.y-history.net/appendix/wh0801-115_1.html使節団の成果は芳しくなかったようですが、その背景には、様々な要因があったことが分かります。
様々な思惑が交錯していたんですね。
1613年(慶長18年)、伊達政宗は支倉常長を遣欧使節として、宣教師ソテロ、ビスカイノらを伴い、バウティスタ号で仙台藩・牡鹿半島の月浦を出帆させました。
使節団は、1614年(慶長19年)にメキシコ・アカプルコに入港し、メキシコ市を経由してスペインへ渡り、セビリア、マドリード、ローマを訪れました。
常長は、1615年(慶長20年)にスペイン国王フェリペ3世に謁見し、ローマ教皇パウロ5世にも謁見しました。
使節団は、1616年(元和2年)にローマを出発し、1617年(元和3年)にセビリアに到着しました。
常長は、フェリペ3世に再度通商許可を願い出ましたが、1618年(元和4年)に帰国しました。
資料を拝見すると、支倉常長の外交手腕だけでなく、当時の国際情勢や日本の置かれた立場も影響していたことが分かりますね。
遣欧使節の陰に隠された各々の思惑
伊達政宗が支倉常長をスペインに派遣した本当の目的は?
軍事同盟と権力掌握
慶長遣欧使節の裏には、様々な思惑が隠されていました。
ここでは、それぞれの思惑について詳しく見ていきましょう。

✅ 江戸初期の徳川家康は、通商の利益のため当初はキリスト教を黙認していましたが、侵略を警戒して禁教令を発布しました。しかし、宗教と通商は別物と考えており、スペインとの通商は諦めていませんでした。
✅ 1613年、仙台藩主の伊達政宗は、スペインに使節を派遣する許可を幕府から得て、慶長遣欧使節団を組織しました。使節団は支倉常長をリーダーとし、180人以上のメンバーで構成され、太平洋を横断してスペイン、ローマを訪問しました。
✅ 使節団は通商協約を結ぶことはできませんでしたが、スペイン国王やローマ法王に謁見し、日本の存在を世界に知らしめました。政宗の遣欧使節の目的は、通商だけでなく、外交関係の強化やキリスト教布教の抑制など、多岐にわたっていたと考えられています。
さらに読む ⇒日本文化と今をつなぐウェブマガジン出典/画像元: https://mag.japaaan.com/archives/241666伊達政宗、徳川家康、宣教師ソテロ…それぞれの思惑が絡み合い、複雑な状況を作り出していたんですね。
歴史は面白い!。
伊達政宗が支倉常長をスペインへ派遣した目的は、表面的にはメキシコとの通商交渉と欧州への宣教師派遣の要請でしたが、実際には徳川家康の権力に備え、スペインと同盟し、軍事力を利用しようと考えていた可能性があります。
政宗は娘を家康六男の松平忠輝に嫁がせており、秀忠に代わって忠輝を擁立することも考えていたのかもしれません。
一方、宣教師ソテロは、イエズス会に対抗し、日本布教での主導権をローマ教皇から認めさせたいという野心を持っていました。
徳川家康は、スペインとの関係再開を望んでおり、メキシコとの金銀の採掘と製錬技術に関心を持っていたため、政宗の使節派遣を許可しました。
しかし、家康はキリスト教禁止の変更は考えておらず、あくまでも政宗の使節派遣が成功すれば、その利益を幕府のものにしようと考えた可能性があります。
政宗が家康を出し抜こうとしていた可能性があるとは驚きです。当時の政治力学が垣間見えますね。
遣欧使節の失敗とその後
支倉常長が中級藩士だった理由は?
政宗の使い捨てだったため
最後に、慶長遣欧使節の失敗と、現代におけるその影響について見ていきましょう。

✅ 宮城県民合唱団「コロ・はせくら」とニューヨークの合唱団「JCHとも」が、慶長遣欧使節団の足跡をたどるツアーに参加し、スペインのコリア・デル・リオ市とイタリアのチビタベッキア市で現地の市民合唱団と合同演奏会を開いた。
✅ ツアーを通して、慶長遣欧使節団がスペインとの通商交渉を結べなかったという従来の見方が覆され、410年前に支倉常長が残した縁が現代でも脈々と続いていることが実感できた。
✅ 特に、コリア・デル・リオ市とチビタベッキア市の市長が揃った場で、国際交流の重要性が強調されたこと、そして日本聖殉教者教会でのコンサートで、着物姿の聖母マリア様が見守るなか「コロ・はせくら」と「JCHとも」が熱唱したことは印象深く、410年の時空を超えた感動的な瞬間だった。
さらに読む ⇒支倉常長の足跡訪ねて慶長遣欧使節団から410年の節目–週刊生活ウェブ版出典/画像元: https://www.nyseikatsu.com/ny-news/11/2024/42527/現代においても、使節団の足跡が受け継がれているというのは、素晴らしいですね。
400年の時を超えた交流に感動しました。
支倉常長が中級の藩士であった理由としては、政宗が使い捨てにするつもりだったというのが、イエズス会宣教師アンジェリスの証言から推測できます。
使節の失敗原因としては、政宗が自らキリスト教徒の保護者であるという姿勢を示しながらも、実際には日本で多数のキリシタンが迫害されていたことがスペインやローマ教皇に知られていたことが挙げられます。
また、支倉常長はスペイン語もラテン語も話せなかったため、交渉や文書作成はすべてソテロに頼らざるを得なかったことも原因の一つと考えられます。
支倉常長は、1622年(元和8年)に亡くなりました。
常長の末路は悲しいですが、現代に繋がる縁があるのは素晴らしいですね。合唱団の活動も感動的です!
本日は、支倉常長と慶長遣欧使節について、その背景にある様々な思惑を含めてご紹介しました。
歴史の深さを改めて感じます。
💡 慶長遣欧使節は、伊達政宗の命を受けた支倉常長が率いた、スペイン・ローマへの外交使節団。
💡 使節団は、通商交渉や宣教師派遣を目的とするも、当時の日本の状況や思惑が複雑に絡み合い、目的を達成できなかった。
💡 しかし、その足跡は現代にも繋がり、日西間の交流を深める一因となっている。