徳川家継将軍と大奥、側近たちの物語とは?幼き将軍の短い生涯と、彼を取り巻く権力闘争
わずか4歳で将軍に即位した徳川家継。幼い彼は、側近政治や大奥の勢力争いに翻弄され、短い生涯を終えた。家継の母・月光院と、正室・天英院の壮絶な権力闘争は、江戸幕府の未来を揺るがす。家族間の争いが政治に与える影響とは?悲劇の幼君を取り巻く人間模様を通して、激動の時代を描き出す。
💡 徳川家継は、3歳で将軍に就任。幼少ながら、側近や生母に支えられ、幕政を担いました。
💡 月光院と大奥の権力争いが勃発。側近や役者とのスキャンダルにより、権力基盤が揺らぎます。
💡 家継の死後、徳川吉宗が将軍となり、大奥の権威は失墜。家継の生涯は幕府に大きな影響を与えました
それでは、幼くして将軍となった徳川家継の短い生涯と、彼を取り巻く人々のドラマについて、詳しく見ていきましょう。
幼き将軍の時代
家継はどんな状況で将軍になった?
4歳で、父と兄を亡くして
幼くして将軍となった家継の時代を紐解きます。
公開日:2023/02/01

✅ 徳川家継は、江戸幕府第7代将軍で、3歳2カ月で将軍の地位に就いた幼少将軍でした。
✅ 側用人の間部詮房と新井白石による「正徳の治」によって幕政が行われ、貨幣改鋳や貿易制限などの政策が実施されました。
✅ しかし、家継は7歳で死去し、幕政はその後、享保の改革へと移行していくことになります。
さらに読む ⇒世界の歴史まっぷ世界史用語を国・時代名・年代・カテゴリから検索出典/画像元: https://sekainorekisi.com/glossary/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%99/幼い家継を支えた側近たち、間部詮房と新井白石による幕政は、様々な政策を実施しました。
幼い将軍を巡る大奥や側近たちの人間関係、その葛藤も興味深いですね。
徳川家継は、わずか4歳で第7代将軍に就任した幼い将軍でした。
父の徳川家宣が急逝し、兄たちが亡くなっていたため、側近の新井白石が画策して将軍職につかせました。
家継は幼いため、新井白石が中心となり幕政を運営しました。
家継は聡明な子供で、新井白石や間部詮房から教育を受け、間部詮房を父のように慕っていたと言われています。
しかし、幼いながら重い責任を負い、側近政治や大奥の勢力争いの中で短い生涯を終えました。
徳川家継の幼少時代、本当に興味深いですね。新井白石のような優秀な側近がいたことも驚きです。当時の政治状況がよく分かります。
月光院と大奥の権力争い
月光院の勢力、栄枯盛衰の理由は?
側近スキャンダルと対立
大奥で繰り広げられた事件について見ていきましょう。
公開日:2023/07/01

✅ 歌舞伎役者生島新五郎と大奥御年寄絵島は、それぞれ流罪になった「絵島生島事件」は、歌舞伎鑑賞中に門限を破ったことから始まった。
✅ 絵島は、将軍の生母付きの奥女中として信頼されていたが、歌舞伎鑑賞に夢中になり門限を破り、さらに役者生島新五郎との密通疑惑で取り調べを受けた。
✅ 絵島と新五郎は密通を否定したが、拷問の結果流罪となり、密通の噂はその後も広がり、真実ではないのに半ば真説として定着してしまった。
さらに読む ⇒出典/画像元: https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c10804/絵島生島事件は、大奥の権力争いと密接に絡み合っていたんですね。
事件の真相が曖昧なまま、噂だけが広まってしまったというのも、なんだか恐ろしいです。
家継の生母である月光院は、大奥での勢力を強めましたが、側近とのスキャンダルや、家継の世話役である間部詮房との対立により、その勢力は衰えました。
月光院は、江戸幕府6代将軍・徳川家宣の側室であり、7代将軍・徳川家継の生母です。
彼女は町民から家宣の屋敷に仕え、やがて大奥に入り、家宣の寵愛を受けました。
宝永6年(1709年)に家宣との間に家継を産み、左京の局と呼ばれました。
家宣の死後、月光院は落飾し、家継が将軍になると、月光院派は勢力を増しました。
しかし、正徳4年(1714年)の江島生島事件で、月光院の側近である江島が捕らえられたことにより、月光院派の勢力は衰えました。
絵島生島事件、初めて聞きました。歌舞伎鑑賞がきっかけって、なんだか意外ですね。当時の大奥の人間関係は複雑だったんですね。
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将軍の座を巡る女たちの激しい戦い!月光院と天英院、権力と野望が渦巻く大奥の陰謀劇。家継の死に隠された真実とは?