豊臣秀頼と徳川家康の壮絶な戦いが今、始まる!?大坂の陣とは!?
💡 豊臣秀頼と徳川家康の対立が、大坂の陣へと発展した経緯
💡 冬の陣と夏の陣に分かれた、大坂城での激戦
💡 豊臣秀頼の最期と、豊臣家の滅亡
それでは、大坂の陣について詳しく見ていきましょう。
天下統一への道:家康と豊臣家の対立
家康は、豊臣家の勢力を恐れていたのでしょうね。
公開日:2023/11/24
✅ 豊臣秀頼が京都の方広寺大仏殿を再建した際に、梵鐘の銘文に徳川家康への呪詛の意図があるとされ、家康が激怒した事件。
✅ 事件の発端は、方広寺の大仏再建にあたり、大仏殿の棟札に徳川家派遣の大工頭の名前が記載されていなかったことや、梵鐘の銘文に「国家安泰、天下泰平」という文言とともに「東江(とうこう)」の文字が含まれていたこと。
✅ この「東江」の文字が、家康の父・松平広忠の戒名「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」を連想させ、「家康への呪詛」と解釈されたため、家康は激怒し、大仏殿の落慶法要を延期。これが豊臣家と徳川家の対立を深め、後の大坂冬の陣へとつながっていく。
さらに読む ⇒サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト出典/画像元: https://serai.jp/hobby/1162823豊臣家と徳川家の対立は、本当に深刻なものだったんですね。
関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は、天下統一を確実なものとするため、豊臣家を滅ぼす計画を立て始めました。
家康は豊臣家との関係改善を図るため、豊臣秀頼と家康の孫である千姫の結婚を進めましたが、方広寺鐘銘事件をきっかけに対立が深まりました。
この事件は、豊臣秀頼が再建した方広寺の梵鐘の銘文に家康の名を分断して呪詛する記述があるとして、家康が豊臣氏を厳しく追及したことから勃発しました。
家康は豊臣氏に対して転封と人質提出を要求しますが、交渉は決裂し、ついに1614年、大阪冬の陣が始まりました。
あの事件は、家康にとっては大きな屈辱だったでしょうね。
冬の陣:籠城と講和
冬の陣は、徳川軍が圧倒的な兵力を持っていたにもかかわらず、長期戦になったのですね。
✅ 冬の陣では、豊臣方は徳川方の攻撃に備え、大坂城周辺に砦を築き防衛体制を敷きました。しかし、木津川口、鴫野、今福、博労淵、野田、福島などの砦は次々と徳川方に陥落し、豊臣方は大坂城に撤退を余儀なくされました。
✅ 徳川方は大坂城を完全包囲し、海上封鎖を行って豊臣方の補給を断ちました。しかし、徳川方自身も兵糧の不足に苦しんでいたようです。
✅ 徳川方は大坂城への攻撃準備として、竹束や大楯などの構築物を用いて城に近づこうとしましたが、豊臣方の抵抗にあい、なかなか前進できませんでした。
さらに読む ⇒探究心をくすぐる本格派の歴史ウェブマガジン | 戦国ヒストリー出典/画像元: https://sengoku-his.com/468豊臣軍の防御力も凄かったんですね。
冬の陣では、徳川軍は20万以上の兵力を擁し、大坂城を包囲しました。
豊臣方は籠城策で抵抗し、真田幸村らの活躍によって徳川軍を苦しめたものの、物資や兵力不足により徐々に劣勢に追い込まれました。
最終的に、徳川軍は冬の陣での勝利に限りなく近い状況でしたが、家康は講和を結び、時間を稼ぎました。
一方、家康の側近・本多正信は、講和条件を無視して大阪城の外堀を埋め立て、夏の陣への準備を進めました。
真田幸村は、本当に強かったんですね!
夏の陣:豊臣家の滅亡
真田幸村の活躍は、本当に凄かったですね。
✅ 徳川家康は豊臣家を排除するため、方広寺鐘銘事件などを利用して大坂の陣を引き起こしました。
✅ 大坂の陣は冬の陣と夏の陣に分かれ、冬の陣では真田幸村の活躍により豊臣軍は善戦しますが、最終的には徳川軍が和議を勝ち取ります。
✅ 夏の陣では豊臣軍は籠城作戦を取れなくなり、真田幸村の戦死や大坂城の火災により、豊臣秀頼と淀殿は自害し、豊臣家は滅亡しました。
さらに読む ⇒【刀剣ワールド 城】日本の城を検索/ホームメイト出典/画像元: https://www.homemate-research-castle.com/useful/16981_tour_062/夏の陣は、豊臣家の滅亡に向かって進んでいったんですね。
1615年5月8日、大阪城は徳川軍によって落城しました。
夏の陣では、豊臣軍は真田幸村の活躍により徳川家康を追い詰める場面もありましたが、最終的に敗北しました。
豊臣方の敗北は、徳川家康と秀忠の軍勢が動いたことが大きな要因でした。
家康と秀忠はそれぞれ二条城と伏見城を出発し、淀川筋の戦いに備え、豊臣方の滅亡へとつながる大きな転換点となりました。
豊臣秀頼は、自害を選んだんですね。
秀頼の決断:戦場に立つことなく
豊臣秀頼は、なぜ戦場に出なかったのでしょうか?。
✅ NHK大河ドラマ「どうする家康」第36回「於愛日記」では、淀殿役として北川景子が登場し、母・お市の方とは対照的な闇を纏った存在として描かれた。
✅ 淀殿と大野治長の関係が注目される。大野治長は玉山鉄二が演じ、不義密通の異説など、淀殿の悪女としての側面が描かれる可能性もある。
✅ 第37回「さらば三河家臣団」では、秀吉の北条攻めに家康が従い、三河を離れることになる。家康は家臣たちに事情を説明できないまま出陣を命じ、秀吉は20万の大軍で小田原城を包囲する。
さらに読む ⇒デイリースポーツ online出典/画像元: https://www.daily.co.jp/gossip/2023/09/25/0016849276.shtml淀殿と大野治長の関係は、とても興味深いですね。
豊臣秀頼は戦場には立つことなく、最後まで城内に留まりました。
これは、豊臣秀頼の安全を優先する淀殿と側近らの判断によるものでした。
冬の陣での勝利に限りなく近い状況にもかかわらず、家康は講和を結び、翌年の夏の陣で再び大坂城を攻めました。
これは、家康が豊臣家の存在が江戸幕府の基盤を揺るがす脅威だと考えていたためです。
家康は豊臣家を滅ぼすことで、江戸幕府の支配を確固たるものとしたのです。
秀吉の北条攻めは、家康にとっても大きな転換期だったんですね。
最後の決断:出陣と自刃
真田幸村の最後を、詳しく教えてください!。
公開日:2024/12/16
✅ 1615年6月3日(慶長20年5月7日)の大坂夏の陣天王寺の戦いで、真田幸村が討死しました。
✅ 真田幸村は、関東方と対峙する最前線の天王寺に陣取り、家康の首を狙い、敵を大混乱に陥れる作戦を実行しました。
✅ 真田幸村は、赤備えの甲冑に白熊の兜をかぶり、家康本陣まで迫り、家康を逃がすも、満身創痍となり討死しました。
さらに読む ⇒WEB歴史街道出典/画像元: https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3843真田幸村の活躍は、本当に感動しました。
豊臣秀頼は、城外を視察し、西軍の士気を高めるなど、積極的に戦いに臨もうとする姿勢を見せました。
しかし、最終決戦の場である天王寺で、真田幸村から出陣を要請され、城外に出陣するも、前線での大敗北の知らせを受け、側近たちの反対により城に戻りました。
その後、大坂城は落城し、秀頼は淀殿とともに自刃しました。
秀頼が出陣していたとしても、戦況が変わったかは不明です。
すでに徳川幕府体制は確立しており、豊臣恩顧の意識は薄れていたと考えられます。
秀頼の死は、豊臣家の終焉を告げるものでした。
秀頼が出陣していたら、結果が変わっていたかもしれませんね。
大坂の陣は、豊臣家の滅亡という歴史的な出来事であり、徳川幕府の支配を確固たるものとした重要な戦いでした。
💡 豊臣秀頼と徳川家康の対立が、大坂の陣へと発展
💡 冬の陣と夏の陣での激しい戦闘
💡 豊臣家の滅亡とその後の歴史への影響