Gone Hidden Logo Menu opener

日本の歴史:強訴と焼き討ちとは?(白河法皇、織田信長)?強訴と焼き討ちの歴史:平安時代から戦国時代まで

平安時代、権力に翳りを見せ始めた貴族たちを悩ませたのは、武装した僧兵「山法師」。神仏習合を盾に、神輿を担ぎ朝廷を脅迫する彼らに、白河法皇も手を焼いた。その後、織田信長は、比叡山延暦寺焼き討ちを実行。宗教勢力の政治介入を断ち、天下統一への道を切り開いた。日本の歴史を揺るがした、僧兵と権力者の攻防劇を紐解く。

日本の歴史:強訴と焼き討ちとは?(白河法皇、織田信長)?強訴と焼き討ちの歴史:平安時代から戦国時代まで

📘 この記事で分かる事!

💡 平安時代には、僧兵が神仏の権威を盾に朝廷に要求を突きつけ、政治に影響を与えました。

💡 鎌倉時代以降、寺社勢力の増大と権力争いが激化し、強訴は頻繁に発生しました。

💡 戦国時代には、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちし、武力による宗教勢力の制圧を行いました。

それでは、これらの出来事が日本の歴史にどのような影響を与えたのか、詳しく見ていきましょう。

白河法皇と僧兵の強訴

白河法皇は何を「我が心にかなわぬもの」と嘆いた?

賀茂川の水、双六の賽、山法師

白河法皇が僧兵の強訴に手を焼いたエピソードは有名ですね。

当時の貴族たちが、怨霊や祟りを恐れて抵抗できなかったというのも興味深いです。

僧兵の強訴について簡単にわかりやすく紹介【白河法皇を悩ませた山法師とは】

公開日:2018/03/15

僧兵の強訴について簡単にわかりやすく紹介【白河法皇を悩ませた山法師とは】

✅ 僧兵は、武士の台頭を背景に、土地や税金をめぐる争いから身を守るために武装した僧侶のことです。

✅ 僧兵による強訴とは、神仏習合の思想に基づき、神や仏法の権威を盾に朝廷に無理難題を要求する行為のことです。

✅ 強訴は、神木や神輿を朝廷内に持ち込むことで行われ、平安貴族の強い信仰心と怨霊や祟りに対する不安を突くことで要求を実現させていました。

さらに読む ⇒まなれきドットコム出典/画像元: https://manareki.com/sohei_goso

白河法皇が僧兵の強訴に悩まされた様子が、よくわかります。

院政を始めた人物でも、手に負えないものがあったというのは驚きです。

平安時代、白河法皇は、僧兵の強訴に悩まされました。

僧兵とは、武装した僧侶で、仏法により国を守るために存在していましたが、土地や税金争いを勝ち抜くために武装していました。

特に東大寺、興福寺、延暦寺は、権威を利用して私有地を増やし強大な力を持つようになりました。

僧兵の強訴は、神仏習合思想に基づいていました。

神々を仏の化身とする本地垂迹説によって、僧侶たちは神々の権威を笠に着て朝廷に無理難題を要求。

神木や神輿を朝廷に持ち込むことで、神聖さを強調し、平安貴族を威圧しました。

当時の貴族たちは、怨霊や祟りを恐れ、神仏の力を恐れて抵抗できませんでした。

白河法皇は僧兵の強訴を「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」という言葉で表し、その手に負えないことを嘆きました。

白河天皇は、1086年に上皇となり、院政を開始した人物です。

彼は、天皇の父や祖父の地位を利用して、政治を思うがままに進めました。

しかし、白河天皇も頭を悩ませた問題がありました。

それは、比叡山の僧兵による「強訴」です。

比叡山は、多くの荘園を持ち、経済的に豊かな寺院でした。

そのため、僧兵たちは、自分たちの利権を守るために、朝廷に対して武力による圧力をかけました。

彼らは、仏罰や神罰を恐れる貴族たちに、要求を呑ませようとしました。

白河天皇は、強大な権力を持っていましたが、僧兵の強訴には手を焼いていました。

彼は、僧兵の力を恐れて、彼らの要求を受け入れることもありました。

『平家物語』では、白河天皇が「賀茂川の水、双六の賽、山法師」の3つを「我が心にかなはぬもの」と嘆いたというエピソードが紹介されています。

これは、白河天皇が、自然災害や運勢、そして僧兵の強訴に、どうしようもなかったことを示唆しています。

白河天皇の時代、大寺院は、武力を持ち、政治に大きな影響力を与えていました。

これは、白河天皇の権力をも脅かす存在でした。

僧兵の強訴は、白河天皇にとって、大きな頭痛の種だったのです。

なるほど、白河法皇も僧兵の強訴には手を焼いていたんですね。当時の貴族の信仰心や、怨霊への恐れが強訴を助長していたというのも面白いですね。

嘉応の強訴:寺社の勢力と朝廷の対立

嘉応の強訴は何を求めて起こった?

成親配流

嘉応の強訴は、後白河天皇と平氏の対立が表面化した事件であり、興味深いですね。

寺社の勢力と朝廷の関係性がよく分かります。

平清盛:(10)強訴その2嘉応の強訴昭和一桁男
平清盛:(10)強訴その2嘉応の強訴昭和一桁男

✅ 延暦寺は、後白河院の寺社勢力抑制政策や美濃国における荘園拡張をめぐる藤原成親との対立により、後白河院と対立していました。

✅ 嘉応元年(1169年)12月、延暦寺の僧兵が尾張国守の目代に対する暴行事件をきっかけに、強訴を起こし、都の大内裏にまで侵入して騒ぎを起こしました。

✅ 後白河院は当初は武力鎮圧を企てましたが、公卿や平重盛らの反対もあり、最終的には延暦寺の要求を受け入れ、藤原成親を配流、目代を禁獄しました。しかし、後白河院はその後、延暦寺座主の解任や成親の復職など、巻き返しを図りました。

さらに読む ⇒昭和一桁男出典/画像元: https://taptior.livedoor.blog/archives/1974352.html

後白河天皇と平氏の対立が表面化した出来事として、非常に重要な事件だったんですね。

寺社勢力の強大さも改めて感じました。

嘉応の強訴は、1169年12月23日に延暦寺の大衆が、尾張国知行国主・藤原成親の配流を求めて起こした事件です。

背景には、延暦寺と朝廷の対立、特に成親の同母弟である藤原家教の目代による延暦寺領荘園の神人に対する暴行事件がありました。

延暦寺は大衆が神輿を奉じて内裏に乱入し、後白河天皇に成親の配流を要求しました。

後白河は当初、成親を擁護していましたが、平氏の非協力的態度や大衆の強硬な姿勢により、最終的に成親の解官と備中国への配流を認め、事態は収束しました。

この事件は、院政開始後、後白河天皇と平氏の政治路線の対立が表面化した最初の事例であり、寺社の勢力と朝廷との緊張関係、さらには武士の台頭を象徴する出来事として歴史的に重要な意味を持っています。

この事件は、院政と平氏の関係、そして寺社の勢力争いが複雑に絡み合っていて、とても興味深いです。歴史の転換点を感じますね。

次のページを読む ⇒

1571年、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ち! 宗教と権力を巡る戦いの衝撃! 歴史的事件を50字で解説します。