徳川家康と尾張徳川家:将軍家を支えた御三家とは?尾張徳川家の知られざる歴史
徳川家康の血筋と幕府260年の歴史を紐解く! 家康の息子たちの運命、御三家の役割、そして尾張徳川家の葛藤と誇りとは? 尾張藩主・義直の目線を通して、将軍家との複雑な関係性、尾張の繁栄、そして将軍継承に隠されたドラマを読み解きます。家康の遺志を継ぎ、幕府を支え続けた尾張徳川家の真実がここに。
尾張藩と幕府の関係
徳川義直と尾張徳川家は幕府とどんな関係だった?
対等意識と対立
本日は尾張藩と幕府の関係について解説します。

✅ 尾張徳川家は徳川家康の九男、義直を初代藩主とし、16人の藩主が治めました。
✅ 歴代藩主の中で、享保の改革で知られる八代将軍吉宗と対立し、名古屋の繁栄の基礎を築いたとされる七代藩主宗春と、幕末の政局で活躍した十四代藩主慶勝は特に有名です。
✅ 宗春は吉宗の改革に真っ向から対立し、隠居謹慎を命ぜられた一方で、慶勝は青松葉事件を経て藩内を勤皇に統一し、幕末の動乱の中で重要な役割を果たしました。
さらに読む ⇒東海史話出典/画像元: https://fouche1792.exblog.jp/977350/尾張徳川家は、幕府に対して独自のスタンスを持っていたのですね。
将軍家との関係性や対立についても触れていきます。
徳川義直は、徳川家康の実子というプライドと熱心な勤皇家としての思想を持ち、幕府に対して「尾張徳川家は幕府の家臣ではない」という意識を持っていたと考えられます。
3代将軍・徳川家光との間では、たびたび衝突が起こり、徳川義直のプライドと家光に対する反抗心が垣間見えます。
徳川義直の死後も、尾張徳川家は、幕府と対等な関係を重んじ、7代将軍・徳川家継の早世時に、尾張徳川家の徳川嗣友が将軍候補に挙がったものの、紀州徳川家の徳川吉宗に競り負けたことで、幕府との対立が深まりました。
その後、尾張徳川家は幕府の方針に反発し、徳川吉宗によって将軍位に就くことを禁じられるに至りました。
なるほど、尾張徳川家は、幕府の家臣というより、対等な関係を望んでいたんですね。将軍吉宗との対立は興味深いです。
尾張藩の歴代藩主と功績
尾張藩はどの家系によって治められ、何人の藩主がいましたか?
徳川家、17人
本日は尾張藩の歴代藩主と功績について解説します。
公開日:2024/09/27

✅ 名古屋城は、徳川御三家の筆頭である尾張徳川家の居城として、江戸時代260年を通じて栄えた城です。
✅ 名古屋城の初代城主は、徳川家康の九男である徳川義直で、彼は1616年に名古屋城に入城しました。
✅ 名古屋城は、徳川家康によって1610年から築城され、1612年に天守閣が完成しました。これは、豊臣家に対する備えとして、東海道の中間地点に位置する尾張に築かれた軍事要塞でもありました。
さらに読む ⇒子連れ家族で楽しむ愛知県の旅行案内出典/画像元: https://travel.child-care50.com/nagoya-castle-darenosiro/尾張藩は260年にわたり、17人の藩主によって治められたのですね。
初代藩主から最後の藩主まで、それぞれの功績に迫ります。
尾張藩は徳川家によって治められ、1610年から1871年までの約260年間に17人の藩主がいました。
初代藩主は徳川義直、最後の藩主は徳川慶勝です。
尾張藩は、名古屋城を本拠地とし、経済的に隆盛を誇り、多くの文化人や芸術家を輩出しました。
尾張藩の初代藩主徳川義直は、慶長5年(1600年)に生まれました。
慶長12年(1607年)に尾張藩主となり、慶安3年(1650年)に亡くなりました。
義直は、家康の遺言により、尾張藩を継承しました。
義直は、尾張藩を安定させた功績を残しました。
2代藩主徳川光友は、義直の長男であり、寛永2年(1625年)に生まれました。
慶安3年(1650年)に家督を相続し、元禄6年(1693年)に隠居しました。
光友は、尾張藩の文化振興に尽力しました。
3代藩主徳川綱誠は、光友の長男であり、承応元年(1652年)に生まれました。
元禄6年(1693年)に家督を相続し、元禄12年(1699年)に亡くなりました。
綱誠は、尾張藩の財政再建に尽力しました。
4代藩主徳川吉通は、綱誠の長男であり、元禄2年(1689年)に生まれました。
元禄12年(1699年)に家督を相続し、正徳3年(1713年)に亡くなりました。
吉通は、尾張藩の政治改革を推進しました。
260年も続いたってすごいですね! 歴代藩主の方々の功績に、ますます興味が湧いてきました!
尾張藩と将軍継承
なぜ尾張家は将軍職を譲ったのか?
領地維持と将軍家支援のため
本日は尾張藩と将軍継承の関係について解説します。

✅ 徳川吉宗が8代将軍となったのは、7代将軍・徳川家継の死去により、徳川家の嫡統が途絶えたため、家康の血筋を継ぐ御三家の家系から将軍を選ぶ必要が生じたことによる。
✅ 吉宗が将軍に選ばれたのは、彼が家康の曾孫であり、御三家の中でも家康に近い血筋を継いでいたため。一方、尾張家は嫡統が途絶え、家康の玄孫である継友が当主に戻った。
✅ 吉宗が将軍になった背景には、徳川家の嫡統維持という問題と、御三家の中でも家康に近い血筋を持つ吉宗が有利であったという事実がある。
さらに読む ⇒テンミニッツ|有識者による話分のオンライン講義(オピニオン)出典/画像元: https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=42757代将軍家継の死後、なぜ徳川吉宗が将軍になったのか。
尾張家は将軍継承においてどのような役割を果たしたのかを見ていきましょう。
徳川家康の血筋と徳川吉宗の将軍継承の関係について解説しています。
7代将軍・徳川家継の死去により、徳川家の嫡統が途絶え、家康の血筋を再び継ぐ必要が生じました。
御三家である尾張、紀州、水戸は家康の子孫であり、その中で吉宗が家康の曾孫だったことから、将軍継承に有利だったとされています。
しかし、尾張家は嫡統が途絶え、叔父の継友が家督を継承したため、吉宗が将軍になる道が開かれたと考えられています。
尾張家は、将軍家継承の重責を担い、62万石という御三家最大の領地を所有していました。
しかし、徳川260年の歴史の中で、将軍を輩出することはありませんでした。
6代将軍徳川家宣の時代には、4代当主吉通が後継ぎ候補に挙がりましたが、家宣の急死と吉通の早逝により、実現しませんでした。
7代将軍家継の急死後には、6代当主継友が次期将軍候補に挙がりましたが、紀伊家藩主吉宗に将軍の座を譲り渡しました。
尾張家は、将軍の地位よりも、尾張の所領を守り、将軍家を支えることを優先しました。
そのため、将軍の地位に執着することなく、徳川御三家としての責務を果たし、家康公の遺志を継いで、幕府を支え続けたのです。
なるほど、吉宗が将軍になった背景には、そんな事情があったんですね。尾張家が将軍の座を譲ったというのも、意外でした。
本日の記事では、徳川家康の血筋、尾張徳川家の歴史、そして将軍継承について、様々な角度から解説しました。
💡 徳川家康の血筋は、江戸幕府を支える上で重要な役割を果たしました。
💡 尾張徳川家は、学問や文化を奨励し、領地経営にも貢献しました。
💡 将軍継承においては、尾張家は様々な葛藤と選択を経験しました。