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大奥の権力者たち!家斉、大崎、瀧山…大奥を彩った女性たちの物語とは?大奥を揺るがした女性たちの権力闘争と、激動の幕末

豪華絢爛、しかし末路は…徳川家斉と大奥の真実! 将軍就任から贅沢三昧、大奥の隆盛と幕府の腐敗、そして崩壊への道。精力剤で揶揄された将軍、大奥を牛耳った乳母、そして幕末を駆け抜けた女たちの姿。歴史の闇に迫る、200年の時を超えたドラマが今、ここに。

大奥の権力者たち!家斉、大崎、瀧山…大奥を彩った女性たちの物語とは?大奥を揺るがした女性たちの権力闘争と、激動の幕末

📘 この記事で分かる事!

💡 徳川家斉の治世は、文化が花開き、庶民の娯楽も発展しましたが、一方で幕府の財政悪化や腐敗も進行しました。

💡 大奥は家斉の時代に最盛期を迎え、多くの側室と子供たちを抱え、豪奢な生活を送りました。

💡 大奥では女性たちの権力闘争が繰り広げられ、政治にも大きな影響を与えました。

それでは、まず徳川家斉の治世と大奥の繁栄について見ていきましょう。

家斉の治世と大奥の繁栄

徳川家斉はどんな将軍だった?

贅沢な大御所政治

本日は、徳川家斉の治世と大奥について深掘りしていきます。

長期政権下での文化の発展と、その裏で進行していた幕府の腐敗に迫ります。

在位年、子どもは人以上!泰平の世のはまり役゛遊王徳川家斉゛『遊王徳川家斉』(岡崎守恭)
在位年、子どもは人以上!泰平の世のはまり役゛遊王徳川家斉゛『遊王徳川家斉』(岡崎守恭)

✅ 徳川家斉は、50年という長期政権で「泰平の世」を築いたが、その一方で「遊王」と称されるほど、華やかで自由な権力者生活を謳歌していた。

✅ 家斉は、側室を多く抱え、子供を50人以上ももうけ、その統治は「お身内政権」とも呼ばれるほど、側近を重用し、情実が蔓延していた。しかし、その一方で、文化が花咲き、歌舞伎や浮世絵などの娯楽が庶民にまで浸透した。

✅ 家斉の治世は、享保、寛政、天保の三大改革とは対照的に、庶民の生活は比較的自由で、武家も町人も羽を伸ばせる時代だったとも言える。しかし、一方で、迫りくる危機に正対せず、生ぬるく生きている「ゆでがえる状態」であった可能性も指摘されている。

さらに読む ⇒本の話~読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア~出典/画像元: https://books.bunshun.jp/articles/-/5461

なるほど、家斉の治世は華やかな文化と裏腹に、幕府の基盤を揺るがす要因も孕んでいたのですね。

徳川家斉は、10代将軍・家治の養子として生まれ、天明7年(1787)に将軍位に就きました。

家斉は、庶民文化が花開いた寛政の改革を行い、大奥全盛期とも呼ばれるほどの側室と子供をもうけました。

しかし、同時に、ロシアなどの外国船が日本近海に現れ、幕府は異国船との対応に追われることになります。

また、家斉の治世中には、大塩平八郎の乱など、社会不安も発生しました。

家斉は、精力増強剤を服用していたことから、周囲からは「膃肭臍将軍」と揶揄されたと言われています。

家斉は晩年に大御所となり、その治世は「大御所政治」と揶揄されるほど贅沢なものでした

贅沢な生活は幕府財政を逼迫させ、大奥は3000人近くの女性を抱える巨大組織となり、幕政の腐敗と綱紀の乱れを招きました。

その結果、各地で反乱が起こり、幕藩体制崩壊の兆候が見え始めました。

家斉は天保12年(1841)に68歳で亡くなりました。

興味深いですね。文化が栄える一方で、将来的な危機を孕んでいたとは、歴史の面白さを感じます。

大崎と一橋家の関わり

大崎は家斉の将軍就任後、どのような役割を担った?

御年寄として幕閣と繋いだ

今回は、大奥で権勢を振るった女性、大崎に焦点を当てて解説していきます。

家斉を支えた彼女の功績とは?。

第代将軍・徳川家斉に仕えた大奥御年寄・大崎映美くららの生涯をたどる【大河ドラマべらぼう】
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✅ 大崎は、徳川家斉の乳母を務めたとされ、その後江戸城西の丸へ移り、御客会釈(応接係)などを務めた。

✅ 天明元年(1781年)に家斉が将軍世子になると本丸大奥の御年寄に昇進し、序列第7位として存在感を発揮した。

✅ 老中が田沼意次から松平定信に交代すると、定信と親しかった大崎は上位者をしのぐ権勢を振るい、「表は定信、奥は大崎」と噂された。

さらに読む ⇒日本文化と今をつなぐウェブマガジン出典/画像元: https://mag.japaaan.com/archives/235975

大崎は、家斉の乳母から、大奥の実力者へと上り詰めたのですね。

松平定信との関係も興味深いです。

徳川家斉の乳母である大崎は、家斉が将軍に就任後、大奥の重職である御年寄に就任しました。

彼女は幕閣の意向を内々に伝える役目を担い、一橋治済からは田沼意次の相談を受け、松平定信の老中就任にも関与したとされています。

大崎が仕えた一橋家は、徳川吉宗が御三家とは別に立てた分家の一つです。

徳川家治の嫡男が急死したため、養子として一橋治済の長男である豊千代(後の徳川家斉)が将軍に選ばれました

大崎は長く御年寄として影響力を持っていましたが、1787年に松平定信が老中に就任すると、その役目を解かれました。

松平定信は、大奥内にも改革を行い、大崎は大奥を去りました。

大奥の権力争いって、ドラマみたいで面白いですね!

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徳川家斉と大奥、そして激動の幕末を生きた女たち。将軍付御年寄・瀧山の知られざる生涯を追う。大奥の権力闘争と、彼女の決断とは。