藤堂高虎とは?その生涯と築城技術、彼が残した城郭の秘密とは?藤堂高虎:戦国武将から築城の名手への軌跡
戦国武将、藤堂高虎。7度の主君替えを経て、築城の名手として名を馳せた男。豊臣秀吉・徳川家康に重用され、数々の城を築き上げた。高石垣と層塔型天守、その革新的な技術は日本の城郭建築に大きな影響を与えた。今治城主、津藩主と成り、22もの城を築城・改修した高虎の生涯は、まさに戦国の激動を駆け抜けた生き様そのもの。その卓越した戦略眼と技術を、今、紐解く。
💡 藤堂高虎は、足軽から身を起こし、七人の主君に仕えた戦国武将で、築城の名手としても知られています。
💡 高虎は、宇和島城、今治城、伊賀上野城など、数々の城の築城や改築に関わり、その高い築城技術は後世に大きな影響を与えました。
💡 高虎は、徳川家康から深く信頼され、関ヶ原の戦いでの功績や、家康の遺言によって、その地位を確固たるものにしました。
それでは、藤堂高虎の波乱万丈な生涯と、彼が残した数々の城郭について、詳しく見ていきましょう。
藤堂高虎の生涯と活躍
藤堂高虎はどんな戦国時代の武将だった?
戦国時代を生き抜き、様々な主君に仕えた
本章では、藤堂高虎の生涯を辿りながら、彼の武将としての活躍と、時代との関わりについて解説していきます。

✅ 藤堂高虎は、足軽から始まり、7人の主君に仕えながら、築城術の腕前を生かして出世を重ねた戦国武将です。
✅ 徳川家康から特に信頼され、関ケ原合戦では東軍の勝利に貢献しただけでなく、家康の遺言で「天下を揺るがすような兵乱が起きた場合には、先ず藤堂を」と、井伊家よりも上位に位置付けられました。
✅ 高虎は、宇和島城、今治城、伊賀上野城など、数々の城の築城や改築を行い、晩年には32万石の大大名となりました。戦場での傷跡は数知れず、生涯を通して武勇と築城術で活躍した武将として知られています。
さらに読む ⇒歴史人|歴史の魅力を全力で伝えるエンタメマガジン出典/画像元: https://www.rekishijin.com/10827藤堂高虎の生涯は、まさに激動の戦国時代を象徴していますね。
数々の主君に仕えながら、自身の才能を磨き、最終的には大大名にまで上り詰めたのですから、その生き様には感銘を受けます。
藤堂高虎は、1556年に近江国で生まれ、戦国時代を生き抜いた武将です。
浅井氏、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄と主君を変えながら、戦場で活躍しました。
1576年には豊臣秀長に仕え、竹田城攻め、播州三木城攻め、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなど数々の戦いで戦功をあげました。
1585年の紀州征伐や四国攻めでも活躍し、戦後紀伊国粉河にて1万石の大名になりました。
1586年には、豊臣秀長が徳川家康の接待役を務めた際に、聚楽第内に徳川家康の屋敷を造営する普請奉行を務め、徳川家康から才能を高く評価されました。
その後も、九州攻めでの戦功により2万石を加増され、豊臣秀長の没後、その養子・豊臣秀保を支え、朝鮮出兵にも参加しました。
1595年に豊臣秀保が急死すると、出家しますが、豊臣秀吉に才能を惜しまれ、伊予板島7万石を与えられました。
1597年には再び朝鮮に出兵し、宇喜多秀家らと共に順天倭城を築城し、明・朝鮮連合軍の猛攻を退けました。
豊臣秀吉没後、徳川家康との関係を深め、豊臣方の情報を伝えたり、徳川家康の危機を助けたりすることで、信頼を得ました。
関ヶ原の戦いでは、東軍の勝利に貢献し、戦後20万石に加増されて伊予今治に入封し、今治城を築城しました。
その後、徳川家康の命を受け、膳所城の縄張りを担当し、伏見城や江戸城などの天下普請にも関与しました。
1608年には、伊勢国津に24万石で転封され、伊賀上野城と津城の築城に着手しました。
徳川家康没後も、2代将軍・徳川秀忠から信頼され、1630年に江戸屋敷で亡くなりました。
藤堂高虎は、七人の主君に仕えたという点に、非常に興味を惹かれます。それぞれの時代で、どのように自身の立場を確立していったのか、深く考察したいですね。
築城名人としての藤堂高虎
藤堂高虎はどんな才能で知られていましたか?
築城名人
本章では、藤堂高虎が築城名手としてどのように評価されているのか、彼の築城術の特徴、そして彼が関わった城について詳しく見ていきましょう。

✅ 藤堂高虎は、豊臣秀吉と徳川家康に仕えた築城名人として知られており、数多くの城の築城や改修に携わりました。
✅ 高虎の築城の特徴は、高い石垣、幅広の堀、枡形虎口など、防御力の高い構造であり、層塔型天守も高虎が考案したと言われています。
✅ 記事では、高虎が関与した21の城が紹介されており、その中でも、膳所城、篠山城、江戸城などが特に有名です。
さらに読む ⇒日本全国のお城を検索できて訪問履歴が残せるサイト攻城団(日本全国のお城情報サイト)出典/画像元: https://kojodan.jp/badge/18/高虎の築城術は、防御力を重視した設計が特徴的ですね。
高い石垣、幅広の堀、枡形虎口といった工夫は、現代の目から見ても非常に合理的で、感心します。
藤堂高虎は、加藤清正、黒田孝高と共に「三大築城名人」の一人として知られる築城の名人です。
74年の生涯で22の城の築城・改修を行い、その中には主君の豊臣秀長や豊臣秀吉から命じられたものも含まれます。
徳川家康は関ヶ原の戦い後、西国の豊臣恩顧の大名への備えとして天下普請を行い、藤堂高虎は膳所城の縄張りから関与しました。
藤堂高虎は徳川家康から高い評価を得ており、その信頼から重要な城の築城・改修に関わったと考えられます。
高虎が「三大築城名人」の一人であることは、歴史好きとしては見逃せませんね! 彼の築いた城郭は、是非実際に見てみたいものです。どんなところに特徴があるのか、楽しみです!
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築城の名手・藤堂高虎!難攻不落の城を次々築く!高石垣、五角形の堀…革新的な技術で城郭建築を変えた男。歴史に残る名城の秘密とは?