鑑真、日本へ!~命がけの渡海と、日本の仏教を変えた男とは?鑑真の生涯と日本への渡来の軌跡
命をかけて日本へ仏教を伝えた男、鑑真。失明という苦難を乗り越え、6度の渡航で日本の地に。戒律の乱れを正すため、そして日本の仏教を正しく発展させるために、彼は何に突き動かされたのか? 豆腐や味噌、漢方薬を伝えた一面も。激動の人生を通して、仏教文化に貢献した鑑真の物語。
💡 鑑真は、中国から日本へ仏教の戒律を伝えるため、幾度となく渡航を試みました。
💡 鑑真は、航海の困難や病、そして失明という苦難を乗り越え、日本に到着しました。
💡 鑑真は、日本で戒律を伝え、唐招提寺を建立するなど、仏教文化に貢献しました。
それでは、本記事の内容を3つのポイントにまとめましたので、ご紹介します。
鑑真の生い立ちと仏教への志
鑑真はどんな環境で育ちましたか?
裕福な家庭で育ちました
この章では、鑑真の生い立ちと、日本への渡航を決意するまでの経緯を辿ります。

✅ 鑑真は、中国で高僧として尊敬されていましたが、当時の日本では正式な僧侶が不足しており、戒律を正しく伝えることができませんでした。そのため、鑑真は世界と対等な国づくりのために、日本に戒律を伝えようと決意し、5回の失敗を経て、6回目の渡航で日本にたどり着きました。
✅ 鑑真が日本に渡る決意をした背景には、日本人の僧侶2人が唐に渡って鑑真に授戒を懇願したことがあり、また、長屋王が唐に贈った袈裟に書かれた漢詩に感銘を受けたことも影響していると考えられています。
✅ 鑑真は、日本に戒律を伝えただけでなく、東大寺大仏殿前で聖武天皇らに授戒を行い、日本の仏教の発展に大きく貢献しました。今回の特別展では、鑑真の生き様を描いた東征伝絵巻や、鑑真和上坐像など貴重な資料を通して、鑑真の生涯と戒律のあゆみを学ぶことができます。
さらに読む ⇒和樂美の国ニッポンをもっと知る!出典/画像元: https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/155449/鑑真が日本に渡航を決意した背景には、日本からの熱烈な要請があったこと、そして長屋王の漢詩に感動したことがあったんですね。
鑑真は、唐の揚州で裕福な家庭に生まれ、幼い頃から仏教に深く関心を抱き、14歳で出家しました。
彼は、揚州の長干寺で律宗の戒律を学び、その後、各地を巡り、律宗と天台宗の教えを深めました。
特に揚州の大明寺で多くの弟子を育て、指導者としての経験を積みました。
鑑真は、仏教の戒律を厳格に守りつつ、仏教の多様性を受け入れる柔軟な姿勢を身につけていました。
鑑真さんの生い立ちから、日本への渡航を決意するまでのドラマが凝縮されていて、とても興味深いです。鑑真さんの人となりがよく分かりますね。
日本への渡航を決意し、幾度もの困難に立ち向かう鑑真
鑑真は何のために危険な日本への渡航を決意したのか?
日本の仏教界を正すため
この章では、日本への渡航を決意した鑑真が、実際に渡航するまでの苦難に満ちた道のりを見ていきましょう。

✅ 記事は、中国の「天安門事件」について触れており、特に事件が起こった7月4日と、その後の状況について言及しています。
✅ 記事では、天安門事件は1989年6月4日に発生したとされています。
✅ 事件は、当時の中国政府が民主化を求める学生運動に対する武力弾圧によるものであり、多くの犠牲者が出たことを伝えています。
さらに読む ⇒̓܂ނ出典/画像元: http://ktymtskz.my.coocan.jp/D/nara5.htm渡航の失敗、嵐、弟子の裏切り、失明…想像を絶する苦難に、ただただ圧倒されます。
それでも諦めない鑑真の精神力には頭が下がりますね。
日本の僧侶、栄叡と普照は、日本の仏教界に戒律を伝える僧侶を探し求めて中国へ渡り、9年の歳月を経て、揚州で鑑真に出会いました。
彼らから日本の仏教界の現状を聞いた鑑真は、日本の僧侶たちの乱れた風習を正すために、危険な日本への渡航を決意します。
しかし、最初の渡航は弟子たちの密告により失敗に終わってしまいます。
その後も、悪天候や弟子たちの反対、さらには失明という試練に見舞われながらも、鑑真は諦めずに日本への渡航を続けます。
渡航の失敗や失明など、本当に大変な状況だったんですね。それでも諦めなかった鑑真さんの強い意志に感動しました。
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激しい嵐、失明…困難を乗り越え、鑑真は日本へ!仏教伝来への情熱と命がけの冒険。日本の文化に貢献した、その偉大なる生涯。