明治時代の女子教育と美術教育の変遷とは? ~良妻賢母を求めた時代の女性たちの学び~良妻賢母教育と美術教育:女性の役割と学びの軌跡
明治時代から戦前にかけての女子教育は、良妻賢母を育むことに重点が置かれました。高等女学校での教育内容は、家事や裁縫といった家庭的な内容が中心。絵画教育も、子どもの教育に役立つ「技芸」として位置づけられました。しかし、時代が進むにつれ、女子の社会進出への動きも。本記事では、当時の女子教育の変遷と、そこに込められた社会的な役割について解説します。
💡 明治時代、女子教育は良妻賢母を育てるためのものであり、家事や裁縫、美術などが重視されました。
💡 美術教育は「嫁入り道具」としての側面が強く、芸術家育成というよりは、家庭内での役割を担うための技術習得が目的でした。
💡 高等女学校の教育内容や地域性、そして社会進出への模索を通して、女子教育の変遷を追っていきます。
本日は、明治時代の女子教育と美術教育に焦点を当て、女性たちの学びと社会における役割について紐解いていきます。
それでは、詳細を見ていきましょう。
明治時代の女子教育と美術
明治時代、女性はどんな教育を受けていた?
良妻賢母教育
本章では、明治時代の女子教育と美術教育の始まりについて見ていきましょう。

✅ 明治時代以降、良妻賢母主義が台頭し、女性の役割は家庭内でのケアに限定されるようになった。
✅ 女性は家事や裁縫などの技術を習得する教育を受け、美術教育も「嫁入り道具」として、子育てに役立つ技術として捉えられていた。
✅ そのため、女性が芸術家として活躍することは想定されておらず、美術教育は男性が近代文化の担い手となるための教育として位置付けられていた。
さらに読む ⇒明治の美術教育は「嫁入り道具」だった?良妻賢母主義とアート出典/画像元: https://artnewsjapan.com/article/1495明治時代は、女性の役割が家庭に限定され、教育もそれに沿ったものでした。
美術教育も、子育てに役立つ技術として捉えられていた点が印象的です。
明治30年代は、良妻賢母主義が社会に根強く、女性は家庭内でのケア役割を担う存在とされ、教育もそれに沿ったものとなりました。
高等女学校令により、家事や裁縫を体系的に学ぶ良妻賢母教育が実施されましたが、女子の就学率は低く、経済的な問題や「女に学問は必要ない」という意識が根強く残っていました。
学校教育では、教科書や美術教育においても男女で明確な違いが見られました。
女子の国語の教科書には家事育児のシミュレーションが掲載され、美術教育では、女子は身の回りの品、男子は農具や砲弾といったモチーフを描くことが多かったようです。
しかし、江戸時代までは、人形や菊人形など、男女で共有されていた文化も存在していたことを考えると、男女間の明確な性差は明治期以降に生まれたものであると考えられます。
女子に美術教育が行われた背景には、「嫁入り道具」としての側面がありました。
絵の教養は、子どもに絵を描いて見せて教育を施すことができ、子の養育に役立つと考えられていました。
つまり、芸術というよりも、裁縫を含めた技芸としての美術教育だったのです。
女性の教育と役割は、家庭に収斂され、男性は近代的な文化の担い手としての未来が想定されていました。
そのため、女性画家の存在は想定外であり、女性が美術を学ぶ目的は、あくまで家庭内の役割を担うためのものでした。
一方で、女性に教育を施す女性は必要とされており、野口小蘋のように、女性教育に力を入れた女性も存在しました。
このような社会状況の中で、女性が美術分野で活躍することは難しく、女性の芸術活動は、家庭内での役割を補完するものとして捉えられていました。
なるほど、明治時代の美術教育は、現代の芸術教育とは全く異なる目的で機能していたんですね。興味深いです。
高等女学校の誕生と発展
戦前の高等女学校の主な目的は?
良妻賢母の育成
本章では、高等女学校の誕生と発展について見ていきましょう。

✅ 本書は、明治後期に国家公認の教育理念として確立された「良妻賢母」教育の実態を、当時の女学校の教科書や校長訓話などの一次史資料を分析することで明らかにする。
✅ 分析の結果、良妻賢母教育は、女性のあるべき姿として、家庭における役割や男性への従順さを強調し、女性の社会進出を制限するものであったことが示される。
✅ さらに、本書は、女子生徒側の「良妻賢母」教育に対する受容状況も考察し、当時の社会における男女不平等主義的な精神文化の一端を浮き彫りにする。
さらに読む ⇒東信堂学術図書出版の東信堂。国際法、教育、政治、社会、宗教、哲学の専門書に豊富な実績。出典/画像元: https://www.toshindo-pub.com/book/91745/高等女学校は、良妻賢母を育成する場として重要な役割を担っていたんですね。
進学率の推移からも、その影響力が伺えます。
戦前の高等女学校は、女子の高等教育機関として、主に良妻賢母の育成を目的としていました。
明治32年(1899年)の高等女学校令で制度化され、各道府県に最低一校の設置が義務付けられました。
高等女学校では、尋常小学校卒業後、3~5年間を過ごしました。
高等女学校は、女子の高等教育機関である女子高等師範学校や女子専門学校への進学率が低かったことから、戦前の女子の実質的な最終教育機関といえます。
当初は、尋常小学校の就学率が低かったため、高等女学校への進学率も低かったものの、尋常小学校への就学率が上昇するにつれて、高等女学校への進学率も上昇し、大正14年(1925年)には、男子の進学先であった旧制中学校の在学者数を上回るようになりました。
昭和20年(1945年)には、約25%に達しました。
高等女学校の存在意義や、その後の女子の進路選択に大きな影響を与えたことがよくわかりました。
次のページを読む ⇒
明治~戦前の高等女学校。良妻賢母を目指し、家事・裁縫を重視。大正時代には社会進出も。地域で異なる教育内容も明らかに。