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徳川綱吉と生類憐みの令?~犬公方と呼ばれた将軍の政治と思想~徳川綱吉の治世と生類憐みの令の実態

江戸幕府5代将軍、徳川綱吉。幼少期に家督を継ぐも、儒教を重んじ、母の影響で「生類憐みの令」を発布。犬好きが高じて「犬公方」と称され、その治世は功罪入り混じる。前半は「天和の治」と称賛されるも、後半は独裁色が強まり、社会に混乱をもたらした。文治政治を志すも、理想と現実の間で揺れ動いた綱吉の生涯を描く。

徳川綱吉と生類憐みの令?~犬公方と呼ばれた将軍の政治と思想~徳川綱吉の治世と生類憐みの令の実態

📘 この記事で分かる事!

💡 徳川綱吉は、第5代将軍として文治政治を推進し、儒教を重んじました。

💡 生類憐みの令は、動物愛護を目的としましたが、その内容が過剰になり、人々の生活に影響を与えました。

💡 綱吉の政治は、前半の改革と後半の独裁傾向、そしてその評価は時代と共に変化しています。

それでは、綱吉の生い立ちから将軍就任、そしてその政治の詳細について見ていきましょう。

将軍就任と生類憐みの令

徳川綱吉は何で有名?

生類憐みの令

本章では、綱吉の生い立ちと将軍就任の経緯、そして生類憐みの令の発布に至るまでの背景を解説します。

生類憐みの令を出した「犬公方」徳川綱吉をあっけなく死に至らしめた人獣共通感染症の皮肉

公開日:2024/08/04

生類憐みの令を出した「犬公方」徳川綱吉をあっけなく死に至らしめた人獣共通感染症の皮肉

✅ 徳川綱吉は、儒教を重視し、生類憐みの令を発布することで知られる五代将軍です。

✅ 生類憐みの令は、牛馬の遺棄を禁じたことから始まりましたが、綱吉はそれ以前から鷹狩りを制限したり、農村における狩猟用の鉄砲を回収したりするなど、動物保護の思想を持っていたと考えられます。

✅ 綱吉の生類憐みの令は、犬や牛馬などの獣畜の過剰な保護を禁じた一方で、乳児や高齢者、病人の遺棄を厳しく禁じたため、現代の動物福祉の概念の先駆けとなったと言えます。

さらに読む ⇒ニュースサイト出典/画像元: https://mainichi.jp/premier/health/articles/20240729/med/00m/100/005000c

綱吉の生類憐みの令は、現代の動物愛護の概念に繋がる部分もあったという点は興味深いですね。

徳川綱吉は、1646年に徳川家光の4男として江戸城で生まれました。

幼少期は徳松と名付けられ、後に松平綱吉、そして徳川綱吉と改名しました。

兄の家綱が後継者に選ばれましたが、家綱に子が無かったため、綱吉は34歳で将軍職を継ぐことになりました。

綱吉は儒学に傾倒し、母である桂昌院の影響を受け、「生類憐みの令」を発布しました。

これは動物愛護を目的とした法令でしたが、内容がエスカレートし、最終的には蚊を殺すことや釣りをすることまで禁止されるようになりました。

この法令は綱吉の死後廃止されました。

綱吉は身長が124cmと低身長であったことからコンプレックスを抱いていたと言われています。

また、能狂と呼ばれるほどの能オタクでもあり、能に深く傾倒していました。

綱吉は「犬公方」と呼ばれるほど犬を愛しており、これは戌年生まれであったことと、生類憐みの令の影響が考えられます。

なるほど、綱吉公は幼少期から動物保護の思想を持っていたんですね。生類憐みの令が犬だけに限らなかったというのも意外でした。

綱吉の政治:前半の改革と後半の独裁傾向

綱吉の治世はどのように評価される?

前半は評価、後半は独裁化

本章では、綱吉の政治を前半と後半に分け、その変遷と各政策の内容、そしてその評価について解説します。

徳川綱吉〜犬公方と呼ばれた第代将軍をわかりやすく解説
徳川綱吉〜犬公方と呼ばれた第代将軍をわかりやすく解説

✅ 徳川綱吉は、兄の徳川家綱の跡を継いで第5代将軍となり、初期には安定した政治を行い、将軍権威の回復を目指した。

✅ 綱吉は儒教を重視し、戦国時代の殺伐とした雰囲気を排除し、徳を重んじる文治政治を推進した。

✅ しかし、晩年には「生類憐みの令」など、悪名高い政策を発布し、その治世は大きく転換した。

さらに読む ⇒日本の旅侍出典/画像元: https://www.tabi-samurai-japan.com/story/human/1265/

将軍権威の回復を図り、有能な人材を登用するなど、綱吉の初期の政治は評価されるべき点が多いですね。

綱吉の治世は前半は「天和の治」と呼ばれ、高く評価されています。

彼は、将軍就任に功績のあった堀田正俊を大老に就任させ、諸藩の政治監査や継承問題の裁定をし直すことで、将軍家の威光回復に努めました。

また、世襲役人を罷免し、有能な小身旗本の登用を図るなど、人材登用にも力を入れていました。

しかし、後半には生類憐みの令を発令し、独裁色が強くなっていきました

大老の堀田正俊が刺殺された後、綱吉は老中との協調路線を辞め、側用人の柳沢吉保などを重用するようになり、母桂昌院に特別な位を授けるなど、独裁的な政治を行うようになったのです。

前半の改革は評価されていても、後半の独裁傾向はやはり気になりますね。何か原因があったのでしょうか?

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犬公方、徳川綱吉。生類憐みの令で知られる5代将軍は、文治政治を推進。儒教、仏教、神道を政治に取り入れ、その功罪とは?