上野戦争とは?彰義隊の結成から上野戦争での戦い、その後の影響まで(?)上野戦争前後の彰義隊の動向と、その後の影響
徳川慶喜への忠義を胸に、武力闘争へと突き進んだ彰義隊。渋沢成一郎と天野八郎、二人のリーダーのもと、上野戦争で新政府軍に挑む。江戸市民の期待を背負いながらも、圧倒的な軍事力の前に散る姿は、戊辰戦争の象徴となった。上野戦争の詳細から、戦後の供養、西郷隆盛像に隠された意味まで。激動の時代を駆け抜けた彰義隊の軌跡を追う。
彰義隊の変容と上野戦争の激戦
彰義隊はなぜ上野戦争で敗れたのか?
アームストロング砲による砲撃
上野戦争は、旧幕府軍と新政府軍の衝突の中でも特に重要な局地戦でしたね。
公開日:2024/05/14

✅ 上野戦争は、戊辰戦争中の局地戦の一つで、旧幕府軍の彰義隊と新政府軍との間で起こりました。
✅ 新政府軍は、彰義隊の危険性を認識し、容赦なく討伐に乗り出し、上野戦争は彰義隊の壊滅に終わりました。
✅ 上野戦争は激戦となり、上野一帯が焼け野原になるほどの惨状を呈し、多くの犠牲者が出ました。
さらに読む ⇒(武将ジャパン)出典/画像元: https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2024/05/14/20090徳川慶喜の警護から、反政府組織へと変貌していく彰義隊の姿は、時代の流れを感じさせますね。
彰義隊は、当初は徳川慶喜の警護を目的としていました。
しかし、徳川慶喜が水戸に退去した後、強硬派と穏健派に分裂し、強硬派は反政府思想を持つ武力集団へと変わっていきました。
上野戦争では、新政府軍の大村益次郎率いる部隊と激戦を繰り広げましたが、アームストロング砲による砲撃により敗北しました。
彰義隊は、一部の武士が徳川家への忠誠心から戦った一方で、多くは覚悟のない町人や無頼漢で構成されていたという側面もあります。
彰義隊が、最初から武力闘争を目指していたわけではないことに驚きました。時代の流れによって変わっていく姿は、歴史の面白さですね。
上野戦争の余波
上野公園の西郷隆盛像は何を記念して建てられた?
彰義隊鎮圧の勝利
上野戦争後、戦死者の供養が行われたことは、せめてもの救いですね。
公開日:2022/11/04

✅ 東京都荒川区南千住にある円通寺には、上野戦争で戦死した彰義隊士の墓と、旧幕府軍戦死者を慰霊する死節之墓があります。
✅ 彰義隊士の遺体は、円通寺住職と三河屋幸三郎によって集められ、火葬され、円通寺に埋葬されました。
✅ 三河屋幸三郎は新政府軍とも親交があり、この埋葬をきっかけに、円通寺は幕府軍の供養をする官許を得ました。
さらに読む ⇒東京とりっぷ出典/画像元: https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0961/彰義隊の戦死者の供養が、上野戦争から数年後に行われたというのは、少し時間がかかりましたね。
戦後、彰義隊の戦死者の遺体は放置され、生存者も追跡されました。
彰義隊の戦死者の供養は、上野戦争から5年以上経過した1874年にようやく許可され、三ノ輪円通寺の住職によって行われました。
上野公園の西郷隆盛像は、上野戦争での新政府軍の勝利を記念して建てられました。
西郷は上野戦争で彰義隊を鎮圧した場所であり、その戦勝を記念して建てられたものです。
上野戦争で亡くなった方々の供養が、きちんと行われたという事実に、少し安堵しました。
上野戦争の詳細
彰義隊はなぜ新政府軍と戦ったのか?
恭順に反対したため
西郷隆盛の決断や、勝海舟の試みなど、上野戦争の背景にあるドラマが興味深いですね。

✅ 彰義隊討伐を巡り、恭順派と武力鎮圧派で意見が対立する中、西郷隆盛の賛同により、5月9日に総攻撃が決定しました。
✅ 勝海舟は彰義隊との戦闘を避けようと、山岡鉄舟を寛永寺に派遣して説得を試みますが、失敗に終わります。
✅ 大村益次郎は彰義隊殲滅作戦を立案し、資金調達と江戸の火事の歴史を調査するなど、綿密な準備を進め、5月15日に上野戦争が勃発しました。
さらに読む ⇒日本の歴史解説音声つき出典/画像元: https://history.kaisetsuvoice.com/Syougitai2.html上野戦争の詳細な状況が、丁寧に解説されていて分かりやすいですね。
市民の視点もあったのが印象的です。
彰義隊は、新政府軍への恭順に納得しない旧幕府の武士たちによって結成されました。
当初は十数名で結成され、慶喜の警護を目的としていましたが、慶喜が恭順の意思を表しても新政府軍の処置に反発する武士らが加わり、隊員数は1000人を超えるまで拡大しました。
江戸市民の中には、新政府軍よりも彰義隊を応援する者が多かったという。
新政府軍は、江戸警備を彰義隊に任せていましたが、指揮権を奪い、大村益次郎を軍事責任者として派遣しました。
大村は彰義隊がたてこもる寛永寺を取り囲み、彰義隊の討伐を開始しました。
明治元年5月15日早朝、新政府軍は大村益次郎の総指揮のもと、1万5000人余りで彰義隊を攻撃しました。
彰義隊は2000人から3000人で応戦しましたが、軍備に勝る新政府軍の銃撃と砲撃の前に敗れ、300人前後が戦死しました。
上野戦争は、新政府軍の軍事力を示すものとなり、江戸市民に衝撃を与えました。
彰義隊は散り散りとなって逃げた者も少なくなかったが、会津や箱館まで転戦し戊辰戦争を戦う者もいました。
上野戦争の跡は現在も残っており、寛永寺(現在の上野公園)の境内には銃撃・砲撃の跡が残る。
また、彰義隊の供養塔が西郷隆盛像のすぐ近くに建っている。
上野戦争の背景や、新政府軍と彰義隊の戦力差などがよくわかりました。当時の人々の心情も伝わってきます。
本日の記事では、上野戦争を軸に、彰義隊の結成から終焉、そしてその後の影響についてご紹介しました。
激動の時代を象徴する出来事でしたね。
💡 彰義隊は、徳川慶喜を守るために結成されたが、上野戦争で敗北した。
💡 上野戦争は、新政府軍と旧幕府軍の衝突であり、多くの犠牲者を出した。
💡 上野戦争後、戦死者の供養が行われ、その歴史は今も語り継がれている。