元寇とは?日本を襲った蒙古襲来の全貌と、その影響とは?鎌倉時代の日本を揺るがした元寇、その背景と真相
13世紀、世界帝国・元(モンゴル)が日本を侵略! チンギス・ハーンの孫フビライ・ハーン率いる元軍は、2度にわたり日本に襲来するも、鎌倉武士らの激しい抵抗と「神風」により撃退された。 日本の運命を分けた元寇の真相に迫る! 伝説の台風、沈没船の謎… 最新の研究で明らかになる、歴史の舞台裏。 武士道の精神を育み、日本を一つにした激闘の物語。
💡 元寇は、13世紀にモンゴル帝国(元)が日本に侵攻した二度の出来事。文永の役と弘安の役がある。
💡 鎌倉幕府の武士たちの奮戦と、暴風雨(神風)によって、日本は二度の侵攻を撃退した。
💡 元寇は日本の防衛意識を高め、武士道や神風信仰など、日本文化形成にも影響を与えた。
さて、今回は日本を揺るがした元寇について、詳しく見ていきましょう。
まずは、元寇とは何か、そしてその概要からご説明いたします。
元寇勃発 - 世界最強の帝国、日本に侵攻
元寇はなぜ起きた?
日本への侵攻
この章では、文永の役の詳細を紐解きます。
モンゴル帝国の侵攻の様子、日本軍との戦いの様子を解説します。
公開日:2024/12/03

✅ 1274年(文永11年)、モンゴル帝国のフビライ・ハンは日本に侵攻し、九州の博多に3万以上の軍勢で上陸しました。これが文永の役です。
✅ モンゴル軍は集団戦法や毒矢、鉄砲などの武器を用い、日本軍を苦しめましたが、一夜にして撤退しました。
✅ モンゴル軍撤退の原因は、暴風雨であったと伝えられています。
さらに読む ⇒まっぷるトラベルガイド出典/画像元: https://www.mapple.net/articles/bk/9128/モンゴル軍の侵攻は強烈だったようですね。
当時の武器や戦術は、日本軍にとって脅威だったでしょう。
撤退の原因が暴風雨というのは、少し意外ですね。
13世紀、世界を席巻したモンゴル帝国(元)は、初代の皇帝チンギス・ハーンに始まり、孫のフビライ・ハーンが中国を統一し、都を大都(北京)に定めました。
元は高麗を従属させ、その高麗を介して日本に度々朝貢を要求していました。
しかし、当時の日本は鎌倉幕府の北条時宗の時代で、元を蛮族と見なしていた朝廷と、元寇に備え国防意識を高めた鎌倉幕府は、元の要求を拒否し続けました。
ついに元は文永11年(1274年)に日本侵攻を決行、博多に上陸し、日本軍と激戦を繰り広げました。
しかし、鎌倉武士の抵抗によって元軍は撤退を余儀なくされました。
なるほど、当時のモンゴル軍の戦術は相当進んでいたんですね。撤退の原因が暴風雨というのは、まるで歴史ドラマのようです!
鎌倉武士の奮戦と元軍の苦戦 - 文永の役と弘安の役
元寇は日本にとってどんな影響を与えた?
防衛体制強化
この章では、弘安の役での日本軍の奮戦と、元軍の苦戦について掘り下げていきます。
東路軍と江南軍の連携、そして暴風雨の影響を見ていきましょう。
公開日:2024/10/04

✅ 弘安の役では、江南軍は病気が流行したり、司令官交代などのアクシデントに見舞われ、予定していた出港日が大幅に遅れたため、東路軍との合流が遅れました。
✅ 日本軍は当初の予定より1ヶ月遅れて江南軍と合流した東路軍と戦闘を開始し、日中から夜明けまで激しい戦闘が続きました。
✅ 元軍は攻勢に移ろうとしたものの、鷹島周辺の潮の満ち引きが激しく船を出せなかったため、日本軍は休息と増援を得ることができ、結果的に元軍は計画通り大宰府に進軍することができませんでした。
さらに読む ⇒ページ出典/画像元: https://bushoojapan.com/jphistory/middle/2024/10/04/111787/4二度の元寇で、日本は本当に危機的な状況だったのですね。
防衛体制の強化も、結果的に日本の安全を守ることに繋がったのですね。
元寇は、日本にとって大きな危機でしたが、鎌倉幕府と国民が一丸となって立ち向かったことで、撃退することができました。
元寇を教訓に、鎌倉幕府は異国警固番役を制度化し、長門探題を設置、博多湾沿岸に防塁(石築地)を築くなど、防衛体制を強化しました。
しかし、元は諦めず、弘安4年(1281年)に再び日本に侵攻しました。
今回は、東路軍と江南軍の二手に分かれて日本に侵攻しましたが、元軍は不慣れな海上戦や暴風雨の影響で大きな損害を被り、再び撤退しました。
元寇の二度目の侵攻も、日本は撃退できたんですね!鎌倉幕府と国民の団結力、そして自然の力も味方につけた結果ですね!
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モンゴル襲来!鎌倉武士の死闘と神風の謎。最新研究で迫る元寇の真実!歴史を揺るがす自然現象と人間のドラマ。日本を救った奇跡とは?