Gone Hidden Logo Menu opener

西行法師とは?武士から歌人へ、その生涯と歌の魅力に迫る旅!西行の生涯:武士から出家、旅、そして歌の世界へ

武士から歌人へ、そして旅へ。西行は、華やかな宮廷生活を捨て、桜を愛し、自然を友とした異色の歌人。百人一首にも選ばれた彼の歌は、感情をストレートに表現し、今も人々の心を揺さぶる。波乱万丈の人生と、残された歌が、あなたを西行の足跡を辿る旅へと誘う。

西行法師とは?武士から歌人へ、その生涯と歌の魅力に迫る旅!西行の生涯:武士から出家、旅、そして歌の世界へ

📘 この記事で分かる事!

💡 西行は、武士としての顔を持ちながらも、23歳で出家し歌人として活躍しました。

💡 彼の代表作である『山家集』には、自然への愛情や人生の無常観が表現されています。

💡 西行は各地を旅し、多くの出会いを通して歌を詠み、その歌は現代にも影響を与えています。

それでは、西行法師の生涯を追体験する、魅力的な旅へと出発しましょう。

武士から歌人へ:西行の若き日々

西行は一体なぜ出家したの?

謎が多い

西行が出家するまでの生い立ちを紐解きましょう。

西行は武士を捨て歌人となった逃亡僧である」文人シリーズ第回「北面の武士、西行」
西行は武士を捨て歌人となった逃亡僧である」文人シリーズ第回「北面の武士、西行」

✅ 西行は、出家前は皇宮警護の「北面の武士」として、騎馬警官のようなエリート武士団の一員でした。北面の武士は美貌、武術、文芸、音楽などに秀でた人物で、西行も和歌山の実家の土地を売るほどの賄賂を贈ってその地位を得ました。

✅ 当時の日本では、鳥羽上皇の影響もあり競馬が流行しており、西行も北面の武士として競馬に携わっていたと考えられます。

✅ 西行は出家した後、愛馬と別れ、新たな人生を歩みますが、馬を通して自己を見つめ、多くの歌にその想いを込めたと考えられています。

さらに読む ⇒インフォシーク楽天が運営するニュースサイト出典/画像元: https://news.infoseek.co.jp/article/japanindepth_84896/

北面の武士としての華々しい経歴、そして出家という決断。

その背景には何があったのでしょうか。

西行は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した歌人であり、武士出身である。

本名は佐藤義清、裕福な家庭に生まれ、幼い頃に父を亡くした。

18歳で左兵衛尉となり、その後は鳥羽天皇の護衛を行う北面の武士となり、流鏑馬や蹴鞠の名手としても知られていました。

頻繁に催される歌会では高い評価を得ており、文武両道に優れた人物として名を馳せていました。

しかし、23歳の頃に突如出家し、西行と名乗るようになりました

出家の理由は明確ではありませんが、親しい友人の急死や失恋が原因ではないかと推測されています。

西行が武士だったというのは驚きですね!賄賂で地位を得たという話も、当時の社会の様子を物語っていて興味深いです。

旅と出会いの軌跡:西行の遍歴

西行は生涯でどのような旅をしましたか?

全国各地を遍歴

西行の遍歴を辿り、彼の旅と思想について見ていきましょう。

金を求めて奥州へ旅立つ西行。年前の奥州は戦のない場所などあらず、大量の死者が出ていた。
金を求めて奥州へ旅立つ西行。年前の奥州は戦のない場所などあらず、大量の死者が出ていた。

✅ 東大寺の大仏の鍍金が完成するために、金が不足しているため、西行に奥州藤原氏の藤原秀衡公への砂金の勧進を依頼する。

✅ 西行は高齢のため、体力的に奥州への旅は難しいと感じている。

✅ 西行は元々は奥州藤原氏とつながる佐藤家の棟梁であり、藤原秀衡公との縁があるため、勧進を成功させる期待がある。

さらに読む ⇒ゴールドライフオンライン|個性溢れる表現者が主役のメディア出典/画像元: https://renaissance-media.jp/articles/-/16901

奥州への旅、そして鎌倉での出来事...。

歌人としての西行を形作った旅路が見えてきます。

出家後、西行は京都嵯峨の小倉山や鞍馬山で生活を始め、その後は奥羽地方や高野山へと旅立ちました。

仁安3年(1168)には中国、四国地方に旅に出、崇徳院の眠る白峯陵を訪れ、空海の遺跡巡礼も行いました。

治承元年(1177)には伊勢国二見浦に移り、治承4年(1180)には安徳天皇が即位すると、平氏の勢いが強まりました。

その後、源氏との対立が激化し、治承4年(1181)には平氏軍による南都焼討が発生し、東大寺大仏殿が焼失しました。

東大寺の復興を行っていた僧・重源は、西行に奥州藤原氏に大仏を鍍金するための砂金を早く送るよう伝えてほしいと頼み、文治2年(1186)西行は奥州藤原氏に会うため奥州へと向かいました。

この道中、鎌倉で源頼朝に面会し、和歌や流鏑馬などの話をしたとされています。

文治3年(1187)には現在の大阪府南河内郡河南町にある河内国の弘川寺に移り、建久元年(1190)2月16日、73歳で亡くなりました。

奥州藤原氏への砂金の勧進を頼まれたんですね!西行の交友関係の広さが伺えます。旅の途中で鎌倉に立ち寄ったのも面白いです。

次のページを読む ⇒

桜を愛し、自然を深く理解した歌人、西行。その足跡を辿り、歌に込められた思いを感じよう。感情豊かな歌とゆかりの地が、あなたの心を揺さぶる。