アパルトヘイトとは?歴史的背景と現代社会への影響(?)南アフリカの人種隔離政策、アパルトヘイトの歴史を紐解く
1948年から1994年まで南アフリカを苦しめたアパルトヘイト。白人優位を確立するため、教育、居住、結婚などあらゆる面で差別を制度化した人種隔離政策の実態を解説。人種登録法、土地法、そして国際社会からの制裁と国内の抵抗運動、そしてネルソン・マンデラ。過去の過ちから学び、平等な社会を目指す南アフリカの姿を描く。アパルトヘイトの歴史と、それが現代に残す課題とは。
💡 アパルトヘイトは、1948年から1994年まで南アフリカで行われた人種隔離政策であり、白人による非白人に対する差別を制度化したものです。
💡 アパルトヘイトは、教育、居住、結婚、就職などあらゆる面で差別を行い、国際社会からの非難を受け、反アパルトヘイト運動を活発化させました。
💡 アパルトヘイトは1994年に終結し、ネルソン・マンデラが初代黒人大統領に就任しましたが、その遺産は現代の南アフリカ社会に大きな影響を与えています。
それではまず、アパルトヘイトとは何だったのか、その概要と、この記事で皆様にお伝えしたいポイントを3つに絞ってご紹介します。
アパルトヘイトの誕生と発展
アパルトヘイトは何を目的とした政策だった?
白人優位維持
アパルトヘイトの歴史を紐解く上で、キーパーソンとなるフレデリク・デクラーク元大統領について見ていきましょう。
公開日:2021/12/11

✅ フレデリク・デクラーク元大統領は、南アフリカのアパルトヘイト体制の廃止を推進した功績でノーベル平和賞を受賞した人物であり、11日に85歳で亡くなりました。
✅ デクラーク氏は政治家一族に生まれ、弁護士を経て政治家として活躍し、1989年には国民党党首に就任、旧白人政権の最後の大統領となりました。
✅ 1990年にはアパルトヘイトの廃止を宣言し、ネルソン・マンデラ氏釈放を表明、マンデラ氏との協力により白人特権階級による支配体制を穏便に終結させ、93年にマンデラ氏と共にノーベル平和賞を受賞しました。
さらに読む ⇒ニュースサイト出典/画像元: https://mainichi.jp/articles/20211111/k00/00m/030/322000cデクラーク氏とマンデラ氏の協力によってアパルトヘイトが終結に向かい、ノーベル平和賞受賞へと繋がったことは、大変意義深いことですね。
1948年から1994年まで続いた南アフリカのアパルトヘイトは、白人による非白人への差別を制度化した人種隔離政策でした。
この政策は、白人による黒人支配を正当化するために、教育、居住、結婚、就職などあらゆる面で差別を行いました。
アパルトヘイトの語源はアフリカーンス語で「分離」を意味し、人種間の隔離を徹底することで白人優位を維持しようとしたのです。
1910年の南アフリカ連邦成立後、白人による非白人への差別は存在していましたが、1948年に国民党が政権を獲得したことで本格的なアパルトヘイト政策が始まりました。
国民党は、人種登録法、土地法、雑婚禁止法などの法律を制定し、白人と非白人を完全に隔離しました。
非白人は投票権を奪われ、人種別の教育を受けさせられるなど、人種に基づいた差別的な制度が導入されました。
さらに、1959年には「バンツー自治促進法」が打ち出され、アフリカ人に自治を与えて分離政策を実施しました。
アパルトヘイトは国際社会から非難を受け、国連からの制裁や反アパルトヘイト運動が活発化しました。
ネルソン・マンデラなどの反アパルトヘイト運動家は、不屈の精神で抵抗を続けました。
1960年には、「シャープビルの虐殺」事件が起き、世界中の注目を集めました。
1990年代に入り、国際的な制裁と国内の抵抗運動の激化により、アパルトヘイトは崩壊し、1994年に初の黒人大統領であるネルソン・マンデラが誕生しました。
アパルトヘイトの始まりから終焉までの流れが、非常に分かりやすくまとめられていますね。各法律の内容や、国際的な制裁についても触れられていて、知識が深まりました。
植民地化から始まる差別
アパルトヘイトはどのように始まった?
植民地化と差別
アパルトヘイトの根源を理解するためには、植民地化の歴史を知る必要がありますね。

✅ 南アフリカ共和国で1948年から施行された人種隔離政策「アパルトヘイト」は、白人による非白人に対する差別を制度化したもので、参政権剥奪、土地政策による居住制限、黒人を部族別に分けたバンツースタンへの隔離など、深刻な人権侵害が行われました。
✅ 1980年代には、ANCなどの反アパルトヘイト運動が活発化した一方、国際社会の圧力も強まり、アメリカや国連による制裁が科せられました。
✅ 1990年にはネルソン・マンデラが釈放され、1994年には全人種参加の選挙が行われ、マンデラが初代大統領に就任。アパルトヘイトは終結し、新生南アフリカは多人種共生社会へと生まれ変わりました。しかし、貧富の格差や人権侵害の克服という課題は、現在もなお残されています。
さらに読む ⇒イミダス出典/画像元: https://imidas.jp/genre/detail/D-122-0037.html植民地化からアパルトヘイト成立に至るまでの流れが、非常に簡潔にまとめられています。
複雑な歴史的背景が整理されていて、理解が深まりました。
アパルトヘイトの根源は、17世紀のヨーロッパ人による植民地化に遡ります。
オランダ人入植者は、原住民であるコイとサンの人々を土地から追い出し、奴隷化しました。
1806年のイギリスによるケープ半島の占領後も、黒人南アフリカ人は差別的な扱いを受け続けました。
第二次世界大戦中は、戦争協力と都市部への労働力集中の結果、黒人南アフリカ人の都市への移住が加速し、不法占拠キャンプが形成されました。
一方で、労働力不足から黒人南アフリカ人は工場労働に就くようになり、従来の差別的な雇用慣行に挑戦しました。
この時代には、アフリカ民族会議(ANC)が政治的権利を求め、労働組合がストライキによって賃金向上を求めました。
しかし、南アフリカ政府は、黒人南アフリカ人の抵抗を抑えるために暴力的鎮圧に訴えました。
植民地化がアパルトヘイトの根源にあるという視点は、非常に重要ですね。歴史のつながりを意識することで、より深い理解に繋がりますね。
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アパルトヘイトの歴史と、南アフリカが抱える不平等、そしてその克服への道のりを解説。国際社会と労働組合の連携がもたらした変化とは?