聖徳太子とは? 実在性を巡る謎と推古天皇との関係を解説!飛鳥時代、聖徳太子、推古天皇、政治改革、仏教伝来
飛鳥時代、それは仏教伝来と聖徳太子による改革の時代。女性天皇・推古、そして賢人・聖徳太子の協調により、冠位十二階や十七条憲法が誕生。中央集権を目指し、遣隋使を派遣。しかし、聖徳太子の実在には謎も。古代日本の激動期を、歴史の深淵から紐解く。
💡 聖徳太子は冠位十二階や十七条憲法を制定し、日本の政治体制を確立しました。
💡 推古天皇と聖徳太子は協力して仏教を普及させ、飛鳥文化を花開かせました。
💡 聖徳太子の実在性については様々な議論があり、研究が進んでいます。
それでは、飛鳥時代における聖徳太子と推古天皇の功績について、詳しく見ていきましょう。
飛鳥時代の主な出来事
飛鳥時代はどんな特徴を持つ時代だった?
仏教伝来と聖徳太子の活躍
飛鳥時代は、日本の歴史において大きな変革期でした。
聖徳太子や推古天皇の活躍、仏教の伝来が、その後の日本のあり方を大きく左右しました。

✅ 仏教は538年(552年)に百済から日本に伝来し、崇仏派と排仏派の争いの末、蘇我氏と聖徳太子が勝利し、日本に仏教が根付きました。
✅ 聖徳太子は仏教に深く帰依し、四天王寺や法隆寺などの寺院を建立し、十七条憲法で仏教を国教的な位置づけを与えました。
✅ 聖徳太子は仏教経典の解説書である「三経義疏」を書き、仏教信仰の普及に貢献しました。
さらに読む ⇒福田寺真宗大谷派木田山愛知県あま市出典/画像元: http://fukudenji.jp/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9D%E6%9D%A5%E3%81%A8%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%80%81%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%99%82%E4%BB%A3/仏教の伝来と聖徳太子の活躍は、日本の歴史に大きな影響を与えましたね。
特に聖徳太子が行った寺院の建立や十七条憲法の制定は、その後の日本の文化や政治の基礎となりました。
飛鳥時代は、仏教が日本に伝来し、聖徳太子や4人の天皇による支配が特徴的な時代です。
588年には飛鳥寺が建立され、翌589年には仏教が正式に日本に伝来しました。
592年、蘇我馬子は崇峻天皇を殺害し、翌593年に推古天皇が即位し、聖徳太子が摂政となります。
聖徳太子は仏教の普及に尽力し、594年には仏教を敬う勅令が出されました。
その後、600年には隋王朝に遣隋使が派遣され、603年には聖徳太子により冠位十二階が制定されました。
604年には憲法十七条が制定され、607年には再び隋王朝に遣隋使が派遣されました。
622年に聖徳太子が亡くなり、その後も日本は唐王朝との関係を深め、630年には初めての公式使節が派遣されました。
631年には百済王子豊璋が日本に亡命し、638年には山背大兄王が法隆寺を建立しました。
639年には百済寺が建立され、643年には蘇我入鹿が山背大兄王とその一族を殺害しました。
645年には中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿とその一族を倒し(乙巳の変)、646年には改新の詔が出され、中央集権的な官僚制度や道路網が整備されました。
649年には蘇我倉山田石川麻呂が反乱の疑いをかけられて自殺し、652年には班田収授法が施行されました。
658年には有馬皇子が反乱を企てたとして処刑され、663年には白村江の戦いで日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗北しました。
聖徳太子って、本当にすごい人だったんですね! 仏教を広めたり、憲法を作ったり、まるでスーパーマンみたいです。
聖徳太子の実在性に関する議論
聖徳太子は実在したのか?
実在は疑問視されている
聖徳太子の実在性に関する議論があるんですね。
歴史って奥深いですね。

✅ 聖徳太子遠忌1400年を記念した特別展「聖徳太子と法隆寺」では、法隆寺が所蔵する貴重な寺宝が多数展示され、聖徳太子の事績と法隆寺の歴史を紐解く内容となっている。
✅ 展示物は聖徳太子ゆかりの寺宝、飛鳥時代の文化財など多岐にわたり、太子と太子信仰の世界を深く掘り下げている。
✅ 聖徳太子が実際に使用したと言われる「下笏」や「陶硯」「墨床」「水柱」「匙」、太子が自ら記した「法華義疏」など、貴重な品々が展示され、太子の実像や仏教に対する熱意を感じることができる。
さらに読む ⇒(スパイス)|エンタメ特化型情報メディアスパイス出典/画像元: https://spice.eplus.jp/articles/290280聖徳太子の実在性を巡る議論は興味深いですね。
史料の解釈や、後世の創作について考えることは、歴史を学ぶ上で大切な視点ですね。
聖徳太子は飛鳥時代の重要な人物として知られていますが、その実在性については様々な議論があります。
久米邦武は『日本書紀』の憲法十七条を聖徳太子の実在を証明する根拠として挙げましたが、狩谷棭斎や津田左右吉は憲法十七条が偽作であると指摘しました。
大山誠一はさらに、法隆寺所蔵の薬師像と釈迦像の銘文や天寿国曼荼羅繍帳の銘文についても信憑性を疑問視し、これらの銘文が聖徳太子没後の時代に作られた可能性を指摘しました。
一方、奈良国立文化財研究所による平城京発掘調査で出土した長屋王家木簡から、『日本書紀』が有力氏族の系譜と伝承を記録することで、国家構成氏族の秩序を確立し、王権を擁護することを目的として編纂されたことが明らかになりました。
これらのことから、聖徳太子は王権を強化するための架空の人物として創作された可能性も指摘されています。
つまり、聖徳太子の実在性を証明する根拠とされてきた『日本書紀』の憲法十七条や法隆寺所蔵の銘文は、後世に創作されたものである可能性が高く、聖徳太子は実在した人物ではないという見方が有力になっています。
一方で、日本書紀は当時の権力者によって、王権を強化するために利用されたという見解も存在しています。
聖徳太子が架空の人物かもしれないなんて、驚きです! でも、色々な見方があるってことですね。
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日本初の女帝、推古天皇。聖徳太子との協力で中央集権国家を築き、飛鳥文化を開花!冠位十二階や遣隋使派遣など、革新的な改革で日本の未来を拓いた軌跡。