ジョサイア・コンドル? 日本の建築に革命を起こした男の足跡を追う!(?)近代建築の父、ジョサイア・コンドルの軌跡
明治時代の日本に、西洋建築の息吹を吹き込んだ男、ジョサイア・コンドル。ロンドン仕込みの建築家は、鹿鳴館、旧岩崎邸庭園を手掛け、日本の近代化を象徴する建造物を生み出した。辰野金吾ら、多くの日本人建築家を育て上げ、日本の建築界に革命を起こした。コンドルの情熱と美意識が凝縮された建築遺産は、今も私たちを魅了し続ける。
💡 ジョサイア・コンドルは日本の近代建築の父と呼ばれ、建築教育と数々の建築作品で貢献。
💡 鹿鳴館や旧岩崎邸庭園など、コンドルの設計した美しい建築物が今も現存し、見学できる。
💡 辰野金吾や片山東熊など、コンドルの教え子たちが日本の建築界を牽引した。
それでは、コンドルの日本での活躍と、その功績について詳しく見ていきましょう。
英国からの旅立ちと日本の近代化への貢献
コンドルが日本の近代建築に与えた最大の功績は?
多くの日本人建築家の育成と建築学科開設。
明治時代初期、日本は西洋の技術を積極的に取り入れ、建築もその例外ではありませんでした。
そこで活躍したのが、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルです。

✅ 明治時代初期、欧米の技術導入とともに建築家という職業が生まれ、工部大学校が専門的な建築教育の先駆けとなった。
✅ 工部大学校では、お雇い外国人であるジョサイア・コンドルが建築教育の中心を担い、辰野金吾、片山東熊らを育成し、彼らは日本の近代建築に大きく貢献した。
✅ コンドルは教育のかたわら、帝室美術館や鹿鳴館など多くの建築物を設計し、その教え子たちは卒業後、官公庁や民間において、日本の建築界を牽引した。
さらに読む ⇒国立国会図書館―National Diet Library出典/画像元: https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/16/1.htmlコンドルの教育と実践が、日本の建築にどれほどの影響を与えたのか、改めて認識しました。
素晴らしいですね。
1852年、ロンドンで生まれたジョサイア・コンドルは、建築家としての才能を育み、ヴィクトリア朝時代の隆盛の中で建築家としてのキャリアをスタートさせました。
ロンドン大学で学び、建築界の権威ある賞であるソーン賞を受賞するなど、将来を嘱望されていました。
彼は、日本の近代化を推進する明治政府の招聘に応じ、1877年に工部大学校の教師として来日。
工部大学校では建築学科を開設し、辰野金吾や片山東熊をはじめとする多くの日本人建築家を育成しました。
コンドルの日本行きは、彼の人生だけでなく、日本の近代建築史に大きな影響を与えることになりました。
コンドルが明治政府に招かれた背景や、彼が当時の日本の建築界にもたらした影響について、とても興味深く聞かせていただきました。ありがとうございます。
初期の代表作と文化交流の始まり
コンドルが近代日本にもたらした影響は?
公共建築と文化交流で近代化を推進。
コンドルは教育者としてだけでなく、建築家としても多くの功績を残しました。
その代表作と、日本文化との交流について見ていきましょう。
公開日:2021/02/15

✅ ジョサイア・コンドルは、明治時代に日本に渡来し、工部大学校の建築学教授として日本の近代建築の発展に貢献し、鹿鳴館などの代表作を残したイギリス人建築家。
✅ 代表作には鹿鳴館、三菱一号館、旧岩崎邸庭園洋館があり、工部大学校での教育を通して辰野金吾ら多くの日本人建築家を育成した。
✅ コンドルは建築事務所を開設し、日本文化にも興味を持ち、河鍋暁斎に師事するなど多方面で活躍し、67歳で逝去。
さらに読む ⇒SUMUKOTO.COM出典/画像元: https://sumukoto.com/architect-josiah-conder/鹿鳴館のような華やかな建築物を設計したコンドルが、浮世絵にも関心を持っていたのは意外でした。
多才な方だったんですね。
日本に渡ったコンドルは、教育活動と並行して、鹿鳴館、訓盲院、上野博物館など公共建築を手掛け、近代化を推進する明治政府の建築事業に貢献しました。
特に、ネオ・バロック様式を基調とした鹿鳴館は、不平等条約改正を目指す明治政府の外交の場として建設され、文明開化の象徴となりました。
彼はまた、浮世絵師の河鍋暁斎に師事し、日本の文化にも深く親しみました。
こうした活動を通じて、コンドルは日本の伝統建築にも関心を抱き、日本に留まることを決意します。
鹿鳴館のエピソードは、歴史の教科書でしか知らなかったので、大変興味深かったです。コンドルの日本への貢献度がよく分かりました。
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鹿鳴館から旧岩崎邸まで!近代日本を彩る建築家、コンドルの華麗なる軌跡。和洋折衷の美学と、時代を超えた建築思想に迫る。