太宰府ってどんなとこ?歴史と文化の宝庫!古代日本の「西の都」とは!?
1300年前、東アジアの玄関口として栄えた「西の都」大宰府。唐文化の影響を受けた街並みや、外交拠点としての華やかさを体感!VRで古代の風景を再現!
💡 太宰府は、古代日本の「西の都」として栄えた場所です。
💡 外交や文化交流の拠点として重要な役割を果たしていました。
💡 現在では、歴史と文化の宝庫として多くの観光客が訪れます。
それでは、太宰府の歴史と文化について、詳しく見ていきましょう。
西の都、大宰府の誕生
大宰府はなぜ国際都市と呼ばれた?
唐文化の影響を受けたため
大宰府は、唐の都長安をモデルに造られたんですね。

✅ 唐の都長安をモデルに造られた平城京のように、大宰府は遣唐使の粟田真人が中心となり、外国からの使節を饗応するための「西の都」として整備されました。
✅ 大宰府は、都を模したまちづくりを行い、政庁、朱雀大路などを配置したことで、国際標準となる賓礼を行う舞台となりました。
✅ 大宰府は国際都市として、外国の使節をもてなすために文化人が集まり、新しい文化を生み出し、梅の花を鑑賞しながら和歌を披露する文化もここから生まれたことから、太宰府は日本の文化発展に貢献したと考えられます。
さらに読む ⇒日本遺産太宰府 古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~出典/画像元: https://www.dazaifu-japan-heritage.jp/intro/国際都市として、外国の使節をもてなすための文化が発展したとのことですが、興味深いですね。
1300年前、大宰府には「大君の遠の朝廷」が置かれ(『万葉集』)、『続日本紀』では「天下之一都会」と呼ばれていました。
唐王朝が世界帝国として繁栄していた時代、日本は唐の文物・文化・政治システムを取り入れ、遣唐使が唐から先進の情報をもたらし、改革を進めました。
その結果、奈良時代という歴史上もっとも国際色豊かな時代を迎えたのです。
唐の都長安を実際に見た粟田真人が持ち帰った情報を基に平城京と大宰府が建設されました。
唐の宮都を模倣した大宰府は、碁盤目の街区(大宰府条坊)や朱雀大路、官庁、寺社、学校などを備え、東アジアの国際標準の都として造られたのです。
なるほど、唐の文化の影響が大きかったんですね!
外交と文化交流の拠点としての発展
大宰府はどんな役割を果たしていた?
外交拠点&文化交流の場
太宰府は、外国使節を迎える外交拠点だったんですね。

✅ この記事は、太宰府市の歴史と文化を7つのエリアに分けて紹介しています。
✅ 太宰府市は、古代から外交や文化交流の中心地として重要な役割を果たしてきました。
✅ この記事では、客館跡、菅原道真ゆかりの榎社、大宰府政庁跡、大宰府展示館、大宰府学校院跡、戒壇院、観世音寺、太宰府天満宮など、太宰府の歴史と文化を感じられるスポットが紹介されています。
さらに読む ⇒日本遺産「古代日本の『西の都』」出典/画像元: https://www.nishinomiyako.com/zh-tw/tour/dazaifu.php外国の文化もたくさん流入したのでしょうか?。
西の都大宰府は、外国使節を迎える外交拠点でもあり、文化交流の場でもありました。
外国使節は博多湾岸の筑紫館(鴻臚館)から大宰府に向かい、朱雀大路を通って客館に滞在しました。
外交儀礼では、政庁で楽が奏でられ、日本、唐、新羅の最高級の食器を用いた饗宴が催されました。
大宰府には鑑真、空海、最澄などの知識人が滞在し、新しい文化が流入・集積していきました。
小野篁は唐人と漢詩を唱和し、万葉歌人たちは筑紫の風景に心を寄せて和歌を詠みました。
梅は菅原道真の伝承とともに、太宰府と関連深い花として親しまれています。
観世音寺は、唐から玄宗皇帝から袈裟を直接賜った玄昉が落慶法要を営んだ官寺であり、「西の都」で繰り広げられた交流により、多くの文化・文物が集まった姿を今に伝えています。
大宰府は、外交と文化交流の拠点としての役割を担っていたんですね。
太宰府市日本遺産:歴史と文化の継承
太宰府はどんな歴史を持つ場所だった?
東アジア交流拠点
太宰府は、日本遺産に認定されているんですね。
公開日:2023/05/26

✅ この記事は、令和の時代に「過去」を訪れる旅の魅力を説き、万葉集に詠まれた地である大宰府への旅を提案しています。
✅ 大宰府は古代日本の「西の都」として、東アジアとの交流拠点であり、水城や大野城などの防衛施設、大宰府政庁、観世音寺、戒壇院など多くの文化財を有する歴史とみどり豊かな文化のまちです。
✅ 大宰府は、唐・新羅の侵攻に備える防備として築かれた都城であり、外国使節を迎え、国家による外交・交易が盛んに行われていました。その文化的交流を通して、大伴旅人邸で行われた「梅花宴」のような歌会文化が生まれたことも紹介されています。
さらに読む ⇒【公式】日本遺産検定出典/画像元: https://nihonisankentei.com/kyusyu/fukuokadazaihureiwatenkyo/古代日本の「西の都」としての歴史が、日本遺産として認められたのは素晴らしいことです。
太宰府市日本遺産は、古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~というテーマで、太宰府がかつて東アジアとの交流拠点として栄え、文化が花開いた歴史を物語る遺産群です。
構成文化財には、大宰府政庁跡、観世音寺、太宰府天満宮などがあり、これらの文化財を通して、当時の文化交流の様子や、外交の拠点としての太宰府の役割を知ることができます。
日本遺産は、地域の活性化を目的としたもので、太宰府市では、アプリやパンフレットなどのツールを活用し、観光客に太宰府の歴史と文化をより深く知ってもらうための活動をしています。
そうですね。太宰府には、古代日本の文化を伝える貴重な遺産がたくさん残っています。
広域型日本遺産への認定と地域連携
太宰府市の日本遺産が拡大!一体何が変わった?
広域型に認定、範囲拡大
太宰府市が単独で認定を受けていた日本遺産が、広域型に認定されたんですね。

✅ 基肄城は、663年の白村江の戦いの敗戦後、大和朝廷が防衛目的で築いた、最古級の山城です。
✅ 全長4.3kmに渡る城塞で、土塁や石塁、武器・食料の倉庫跡、大規模な水門遺構などが確認されています。
✅ 現在はハイキングコースとして整備されており、山頂には石碑や展望施設、麓には歴史民俗資料館があります。
さらに読む ⇒日本全国のお城を検索できて訪問履歴が残せるサイト | 攻城団(日本全国のお城情報サイト)出典/画像元: https://kojodan.jp/castle/1475/広域型に認定されたことで、太宰府の歴史をより深く理解することができそうですね。
太宰府市が単独で認定を受けていた日本遺産「古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~」が、広域型(シリアル型)に認定され、福岡県、筑紫野市、春日市、大野城市、那珂川市、宇美町、基山町が新たに日本遺産の仲間入りを果たしました。
この変更により、古代の大宰府を「大太宰府」的な視点で捉え直し、よりその価値を高めることができると考えられています。
具体的には、日本遺産を構成する文化財に「基肄城跡」「阿志岐山城跡」「次田温泉」「塔原塔跡」「天拝山」「杉塚廃寺」「牛頸須恵器窯跡」「牛頸須恵器窯跡出土ヘラ書き須恵器」「御笠の森」「善一田古墳群」「裂田溝」などが追加されました。
また、ストーリーの文章中にも変更が加えられ、より広範囲な地域を示す表現に変更された箇所もあります。
今後は、福岡県や近隣自治体との連携を強化し、地域の地理的歴史的文化的価値をさらに高め、相互発展を目指していくとのことです。
広域型日本遺産への認定は、地域連携を促進し、より一層の歴史文化を盛り上げてくれると思います。
大宰府政庁跡:古代の西の都の遺構
太宰府はどんな場所だった?
九州の政治・文化の中心
太宰府政庁跡は、古代の西の都の遺構なんですね。

✅ 太宰府は、古代において九州地方の統治拠点として重要な役割を果たし、663年に那の津から移転された大宰府政庁が中心でした。700年代には多くの歌人が赴任し、万葉集にも歌が詠まれています。その後、藤原広嗣の乱や菅原道真の左遷、藤原純友の乱など、さまざまな事件や人物が歴史に刻まれています。
✅ 大宰府政庁は、南北22条、東西24坊の条坊制を敷き、方四町の規模を誇っていたと推測されています。政庁の建物は正殿、脇殿、中門、南門、北門、回廊、築地などで構成されていました。西側の丘陵には蔵司と呼ばれる建物があり、穀物や財物を管理していたと考えられています。
✅ 大宰府には実務を行う19の役所があり、その多くは政庁の周辺に設けられていたと考えられています。西側に位置する蔵司地区では、西海道の綿や絹などの調庸物を収納管理する役所が存在していました。発掘調査により、8世紀から11世紀にかけて建造された二重の築地と建物5棟が発見され、蔵司を構成する建物の一部であることが明らかになりました。
さらに読む ⇒福岡史伝 – 福岡2000年の歴史出典/画像元: https://www.2810w.com/archives/54948世紀から11世紀にかけて建造された建物が残っているとのことですが、当時の様子が目に浮かびます。
太宰府は、1300年前に設けられた九州の政治・文化の中心であり、日本の外交、対外防備の先端拠点でした。
大宰府の中枢には、朝堂院形式の政庁、周辺官衙、外国使節を迎えるための客館などがあり、遣唐使経験者など国際的に活躍した人物も多く赴任していました。
政庁跡周辺からは古代を想像できる景観が広がり、特に「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府の中心施設は、政務や儀礼が行われた象徴的な場所でした。
都の宮殿にならった建物配置で、南門、中門、正殿、脇殿、回廊、後殿、北門を備えていました。
8世紀前半には都と同じ洗練された文様の瓦が葺かれ、941年の藤原純友の乱による焼失後もほぼ同じ姿で再建されました。
政庁を取り囲むように様々な役所が配置され、官庁街が広がっていました。
外国使節を迎えるための客館も存在し、朱雀大路沿いの発掘調査によって、8世紀から9世紀前半にかけて高級食器などが出土し、豪華なもてなしが行われていたことが明らかになりました。
外国使節はここで身なりを整え、大宰府政庁へと向かい、儀礼を行ったと考えられています。
大宰府の街づくりは、平安京と共通点があり、朱雀大路の東西にそれぞれ迎賓施設が置かれていました。
太宰府跡へは、西鉄二日市駅から徒歩でアクセスできます。
客館跡から政庁跡まで、途中には菅原道真が住んだ「南館跡」や「朱雀門礎石」などがあります。
政庁跡周辺には、大宰府展示館や坂本八幡宮など、見どころ満載です。
また、政庁跡、客館跡では、公衆無線DazaifuCityWi-Fiを利用して、スマートフォンアプリ「西の都太宰府」でVR体験ができます。
太宰府政庁跡は、古代の歴史を感じる貴重な場所ですね。
太宰府は、古代日本の文化を色濃く残す歴史都市として、現代でも重要な役割を果たしています。
💡 太宰府は、古代日本の「西の都」として、外交や文化交流の拠点でした。
💡 日本遺産に認定され、歴史と文化を継承する取り組みが進められています。
💡 太宰府政庁跡をはじめ、多くの歴史的な建造物や遺跡が残っています。