高天神城の戦いとは?徳川家康と武田氏が激突した山城の攻防戦を徹底解説!戦国時代の激戦地、高天神城。徳川家康と武田氏による攻防戦の歴史を紐解く。
戦国時代の激戦地、高天神城。今川氏築城の要害は、武田・徳川両氏による激しい攻防の舞台となった。落城と奪還劇、そして兵糧攻め... 籠城戦の末に玉砕した武士たちの姿とは? 標高132mの城跡には、今も土塁や堀切が残り、遠州灘や富士山を望む。歴史ロマンあふれる高天神城の全貌に迫る。
💡 高天神城は、戦国時代に徳川家康と武田氏が激しく争った要衝であり、三方が断崖絶壁の天然の要塞だった。
💡 武田信玄と勝頼による二度の攻略戦や、徳川家康による包囲戦など、様々な局面があった。
💡 落城の際には、岡部元信ら城兵の壮絶な最期があった。現在はハイキングコースとして人気を集めている。
それでは、高天神城を巡る激戦の歴史を、時代を追って見ていきましょう。
高天神城の築城と重要性
戦国時代の高天神城、何が重要だった?
遠江国の要衝、激戦地の拠点!
高天神城は、遠江国にあった山城で、今川氏によって築かれました。
徳川家康と武田氏が激しく争った場所であり、特に1574年と1581年の戦いは激戦として知られています。
公開日:2024/07/10

✅ 高天神城は、戦国時代に今川氏によって築かれ、徳川家康と武田氏が激しく争った要衝であり、特に1574年と1581年の戦いは激戦として知られている。
✅ 高天神城は、三方が断崖絶壁で天然の要塞であり、土塁や堀切などの防御設備が多く残されている。
✅ 現在は高天神社の境内となっており、山城の遺構と絶景が楽しめるハイキングスポットとして人気を集めている。
さらに読む ⇒静岡県の旬な観光情報をぎゅっとお届け - 静岡県観光公式ブログ出典/画像元: https://shizuoka.hellonavi.jp/takatenjinjyo高天神城は、天然の要害である地形を活かした堅固な城だったことがわかります。
現在もその遺構が残っているというのは、歴史好きにはたまらない魅力ですね。
戦国時代、遠江国(現在の静岡県西部)は激戦地となり、その要衝として高天神城が重要な役割を果たしました。
今川氏によって築かれたこの城は、標高132mの鶴翁山に位置し、天然の要害と土塁や堀切などの防御設備を備えていました。
徳川家康は、今川家から城主が替わり、遠江国支配の拠点として高天神城を掌握していました。
しかし、武田信玄の西上作戦により、家康は三方ヶ原の戦いで敗北し、高天神城は武田軍の脅威に晒されることになります。
高天神城の地理的な重要性と、その後の戦いの激しさを考えると、まさに戦国時代の縮図のような場所ですね。歴史ロマンを感じます。
武田家による高天神城の攻略
勝頼が高天神城を落とした意味は?織田信長に何が?
徳川・織田の威信低下、武田の遠江支配強化。
武田信玄は高天神城を攻略する為、二俣城を落とすなど様々な作戦を行いました。
しかし、高天神城は難攻不落であり、容易に落とすことができませんでした。

✅ 高天神城は、遠江支配の要として徳川家康が重視し、武田信玄との間で2度の激戦が繰り広げられた難攻不落の山城。
✅ 高天神城は今川氏の支城だったが、今川氏の衰退後、徳川家康が手中に収め、武田信玄による駿河侵攻により対立が激化。
✅ 武田信玄は西上作戦の一環として高天神城を攻撃したが、高天神城の地形的優位性から落とせず、その後、二俣城を落とし高天神城を孤立させた。
さらに読む ⇒刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」出典/画像元: https://www.touken-world.jp/tips/97915/高天神城の地形的優位性が、武田軍を苦戦させた要因だったようですね。
城の構造が、防御に非常に適していたことが伺えます。
武田信玄は高天神城を攻略できませんでしたが、息子の勝頼は1574年に大軍を率いて攻撃を開始。
守将の小笠原長忠は織田信長の援軍を期待しましたが、間に合わず降伏。
高天神城は武田方の手に落ち、武田家が遠江国における支配を強めることになりました。
この第一次高天神城の戦いは、徳川家康と織田信長の威信を低下させ、その後の勢力図に大きな影響を与えました。
武田信玄が攻略できなかったという事実は、高天神城がいかに堅固だったかを示していますね。戦国時代の城郭技術の高さを感じます。
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徳川家康が高天神城奪還へ! 籠城戦の末、武田方の岡部元信は玉砕。壮絶な戦いの舞台を訪れ、歴史を感じよう。