曳馬城と飯尾連龍とお田鶴の物語とは?(浜松城、徳川家康、戦国武将)今川家臣・飯尾連龍とお田鶴。戦国を駆け抜けた夫婦の運命
戦国時代、揺れ動く運命に翻弄された武将、飯尾連龍。今川家臣から織田・徳川への接近、そして悲劇的な最期…。彼の妻・お田鶴は夫の遺志を継ぎ、曳馬城(浜松城)を守り抜こうとする。忠義を貫いた森川助右衛門の姿も。裏切りと忠誠、女性たちの決意が交錯する曳馬城の物語。2023年大河ドラマ『どうする家康』でも描かれた、激動の時代を生き抜いた人々の記録。
💡 今川氏の家臣であった飯尾連龍は、桶狭間の戦い後、織田信長や徳川家康に接近する。
💡 連龍の妻であるお田鶴は、夫の死後、曳馬城を守るため徳川家康に抵抗する。
💡 曳馬城は、家康の浜松城となり、その後、出世城として人々に親しまれるようになる。
それでは、戦国時代、遠江の地に生きた武将・飯尾連龍の生涯を紐解き、その家族や曳馬城(後の浜松城)にまつわる歴史を振り返りましょう。
今川氏の家臣、飯尾連龍の台頭
飯尾連龍は何故、今川義元没後、生き方を変えたの?
時代の流れと妻、お田鶴の影響でしょう。
時は戦国時代。
今回は、今川義元の死後、家臣として生きた飯尾連龍の生涯を追います。
遠江の豪族であった連龍は、時代の流れの中で、どのように生き抜いたのでしょうか。
公開日:2023/03/08

✅ 飯尾連龍は遠江の豪族で、今川義元死後、徳川家康を通じて織田信長に寝返ったが、今川氏真に謀殺された。
✅ 連龍は今川氏真の攻撃を一度は撃退するも、和睦に応じてしまい、駿府で謀殺された。その後、曳馬城は家康に攻められ、浜松城と改名された。
✅ 曳馬城は、豊臣秀吉が家臣として仕えた松下之綱とも縁があり、天下人2人に縁のある場所であった。
さらに読む ⇒ほのぼの日本史出典/画像元: https://hono.jp/sengoku/imagawa-sengoku/iioturatatu/今川義元亡き後、家臣たちは激動の時代を生き抜くために苦悩したことでしょう。
寝返りや謀殺など、厳しい現実があったことが伺えます。
戦国時代、遠江の地に曳馬城(後の浜松城)を居城とした飯尾連龍は、今川氏の家臣として活躍していました。
連龍は、鵜殿氏の一族であるお田鶴を妻とし、今川義元の死後、時代の流れに合わせて、その生き方を変えようとします。
なるほど、今川氏の家臣だった飯尾連龍が、今川義元亡き後、徳川家康や織田信長に接近していく過程は、非常に興味深いですね。歴史の教科書だけでは分からない、武将たちの人間ドラマが見えてきます。
桶狭間後、揺れ動く運命
連龍の最期を分けた「日和見主義」とは?
織田・徳川に接近し、今川氏真に謀殺された。
桶狭間の戦い後、今川家は衰退し、連龍の運命も大きく変わります。
徳川家康との関係、そして妻・お田鶴との絆。
激動の時代を、どのように生きたのでしょうか。
公開日:2023/03/19

✅ 徳川家康の運命を変えた「桶狭間の戦い」をきっかけに、今川氏に仕えた武将・飯尾連龍とその妻・お田鶴の人生が大きく動いた。
✅ 飯尾連龍は今川氏と内通していたことが発覚し謀殺され、妻のお田鶴は夫の死後、引間城主となり城を守るが、家康の侵攻を受け、開城を拒否し討ち死にした。
✅ お田鶴は徳川軍の破格の条件を拒否し、侍女たちと奮戦するも、最後は討ち死という悲劇的な結末を迎えた。
さらに読む ⇒サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト出典/画像元: https://serai.jp/hobby/1116233今川氏真に謀殺された連龍の最期は、非常に悲しい結末です。
時代の流れに翻弄され、板挟みになった連龍の苦悩が伝わってきます。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの後、今川家が弱体化すると、連龍は織田信長や徳川家康に接近し、今川氏真からの離反を試みます。
しかし、その決断は波乱を呼び、今川氏真との間で不和が生じます。
連龍は氏真に一度は許されますが、最終的には駿府で謀殺されてしまうという、不安定な最期を迎えました。
この事件は、連龍の日和見主義的な態度が招いた悲劇とも言えるでしょう。
桶狭間の戦いの後、武将たちの間で、命運が分かれていく様子がよく分かりますね。家康に接近したことが、最終的に裏目に出てしまったのは、何とも皮肉な話です。
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戦国時代、曳馬城を守り抜いた妻・お田鶴の壮絶な最期。忠義を貫いた森川助右衛門親子。浜松城へと続く、勇敢な人々の物語を紐解きます。