Gone Hidden Logo Menu opener

牧野富太郎の生涯と功績:日本の植物分類学の父とは?『らんまん』のモデル、牧野富太郎。

植物学者・牧野富太郎の情熱と功績を紐解く!幼少期の経験から独学で植物学を極め、1500種以上の学名を命名。緻密な「牧野式」植物図、40万枚の標本、図鑑出版…日本の植物学の基礎を築いた。NHK朝ドラ「らんまん」でも描かれた彼の生涯と、代表作『牧野日本植物図鑑』の魅力を、貴重な資料やイベントを通して体感できる。「雑草という草はない」名言が示す、植物への深い愛情と探究心に触れる展示。

牧野富太郎の生涯と功績:日本の植物分類学の父とは?『らんまん』のモデル、牧野富太郎。

📘 この記事で分かる事!

💡 牧野富太郎は、日本の植物分類学の基礎を築いた人物であり、1500種以上の植物に学名を付けた。

💡 緻密な植物図「牧野式」植物図を作成し、晩年には『牧野日本植物図鑑』を刊行。その生涯を植物研究に捧げた。

💡 牧野富太郎の業績は、ドラマや展示会を通して現代にも語り継がれ、多くの人々に影響を与え続けている。

さて、今回は日本の植物分類学の父、牧野富太郎について掘り下げていきます。

彼の生い立ちから、数々の功績、そして現在に至るまでの影響力について、じっくりと見ていきましょう。

生い立ちと植物への情熱

植物学者・牧野富太郎、幼少期は何をきっかけに植物研究?

幼い頃の植物への興味と独学での研究。

牧野富太郎は1862年、高知県佐川町に生まれました。

幼少期に両親と祖父を亡くし、祖母に育てられましたが、幼い頃から植物への強い興味を示し、独学で植物の研究を始めました。

高知イーブックス kochi ebooks
高知イーブックス kochi ebooks

✅ 牧野富太郎の故郷である佐川町には、牧野博士ゆかりの地が多く存在し、牧野公園や青山文庫などで博士の足跡を辿ることができる。

✅ 牧野公園は、牧野博士が送ったソメイヨシノの苗木から始まり、桜の名所として知られており、博士の分骨も埋葬されている。

✅ 青山文庫には、牧野富太郎博士の植物画や遺品などが展示されており、博士の生涯と業績を紹介している。

さらに読む ⇒高知県内のすべてがそろう電子書籍ポータルサイト出典/画像元: https://www.kochi-ebooks.jp/makino-sakawa/

牧野博士の故郷には、博士ゆかりの地が多く残っているのですね。

桜の名所である牧野公園や、博士の遺品が展示されている青山文庫など、ぜひ訪れてみたいです。

1862年、高知県佐川町で生まれた牧野富太郎は、幼少期に両親と祖父を亡くし、祖母に育てられました

幼い頃から植物への強い興味を示し、小学校を自主退学して独学で植物の研究を始めます。

17歳で高知市へ出て五松学舎で学び、植物図や観察記録を作成。

19歳で上京し、東京大学で植物学を学び、植物採集を開始しました。

自由民権運動にも参加し、政治的な活動も行っています。

牧野富太郎は幼少の頃から植物に興味があったんですね!小学校を自主退学して独学で研究を始めるなんて、すごい熱意です!その情熱が、後の偉大な業績に繋がったんですね!

研究者としての道と業績の確立

植物学者、晩年まで情熱を注いだ研究とは?

植物研究と新種ササの発見。

研究者としての牧野富太郎は、日本全国を歩き、膨大な数の標本を収集し、詳細な植物図を作成しました。

彼の図は正確性、緻密性に優れ、植物の命を写し取ったと評されています。

彼の研究は日本の植物分類学の基礎を築きました。

牧野博士ってどんな人?朝ドラ「らんまん」の主人公、孤高の植物学者の人生とは

公開日:2023/04/01

牧野博士ってどんな人?朝ドラ「らんまん」の主人公、孤高の植物学者の人生とは

✅ 日本の植物分類学の父、牧野富太郎は、独学で植物の研究に没頭し、新種の植物を多数発見、学名を付与するなど、日本の植物分類学の基礎を築いた。

✅ 彼は全国を歩き、膨大な数の標本を収集し、詳細な植物図(牧野式植物図)を作成。その図は正確性、緻密性、美しさを兼ね備え、植物の命を写し取ったと評されている。

✅ 晩年には『牧野日本植物図鑑』を刊行し、その妥協のない姿勢で、植物研究の集大成となる図鑑を完成させた。94年の生涯を植物研究に捧げた。

さらに読む ⇒婦人画報デジタル | 食も文化もウェルネスも。「本物」がここにある出典/画像元: https://www.fujingaho.jp/culture/famous-person/a43405083/makmino-tomitaro-230401/

牧野博士は、新種の発見や学名の命名など、研究者としての地位を確立されたんですね。

奥様との出会い、そして「日本植物志図篇」の刊行など、興味深いですね。

数々の著作も刊行され、植物学の普及にも貢献されたんですね。

上京後は、東京大学の植物学教室に出入りし、後に助手を務めます。

明治時代には、植物学雑誌の創刊に携わり、新種の発見や学名の命名を行うなど、研究者としての地位を確立

妻の壽衛との生活が始まり、「日本植物志図篇」の刊行を開始しました。

明治20年代には、東京帝国大学理科大学嘱託、臨時雇用を経て助手となり、各地への植物採集出張を重ねます。

明治30年代には、「新撰日本植物図説」「大日本植物志」などの著作を刊行し、植物学の普及にも貢献しました。

明治40年代には、東京帝室博物館嘱託、千葉県立園芸専門学校嘱託などを務め、植物同好会の会長も務めました。

晩年には、理学博士号を取得し、新種のササを発見するなど、生涯を通じて植物研究に情熱を注ぎました。

池長孟からの援助を受け、池長植物研究所を開設し、研究基盤を築き、晩年まで研究を精力的に続けました。

独学で研究を始めた牧野富太郎さんが、東京大学の助手まで務めるようになったこと、すごいですね!明治時代に、そこまで植物学に貢献した方がいたとは、驚きです!

次のページを読む ⇒

植物学者・牧野富太郎の情熱と功績を凝縮!『らんまん』の世界へ。精密な植物図、図鑑、ドラマ小道具も。型破りな生涯と「雑草という草はない」名言に触れる展示。