矢田部良吉とは?近代植物学を日本に根付かせた植物学者、その生涯とは?近代植物学の父、矢田部良吉の生涯と功績
日本の近代植物学を拓いた矢田部良吉。東大初の植物学教授として、欧米の最新学問を導入し、標本室を創設。牧野富太郎を育て、日本の植物学の基盤を築いた。しかし、西洋への傾倒、学内対立により、その生涯は47歳で幕を閉じる。彼の情熱と遺産は、現代の植物学研究へと受け継がれ、自然への探究心を育み続けている。
💡 矢田部良吉は、明治時代に近代植物学を日本に導入したパイオニア。東京大学の初代植物学教授を務めました。
💡 彼は、牧野富太郎との出会いと別れを経験し、学問の進歩と葛藤の中で、その生涯を過ごしました。
💡 矢田部は、キレンゲショウマ発見など植物学に貢献。非業の最期を遂げるも、その遺産は今も輝いています。
それでは、矢田部良吉の生涯を辿りながら、彼の功績、そして日本の植物学への貢献について、詳しく見ていきましょう。
黎明期の植物学:矢田部良吉の挑戦
矢田部良吉の最大の功績は?日本植物学の基盤は何?
植物標本室の創設と充実です!
矢田部良吉は、1870年に渡米し植物学を学びました。
帰国後、東京大学理学部植物学科の初代教授に就任し、日本の植物学の発展に尽力しました。

✅ 矢田部良吉は、植物学者、詩人であり、明治時代に近代植物学を日本に導入した人物。
✅ 1870年に渡米して植物学を学び、帰国後東京大学理学部植物学科の初代教授に就任。
✅ 植物分類の研究や標本化を行い、新体詩運動を先駆けた『新体詩抄』を外山正一、井上哲次郎と共著で刊行。
さらに読む ⇒国立国会図書館―National Diet Library出典/画像元: https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6344/矢田部良吉は、近代植物学を日本に根付かせた人物として、その功績は計り知れません。
海外での学びを活かし、日本の植物学に新たな風を吹き込みました。
1851年、矢田部良吉は生まれました。
開成学校で教鞭を執り、その後コーネル大学で植物学を学び、1877年、東京大学初の植物学教授に就任します。
彼は、日本の伝統的な本草学とは一線を画し、欧米の植物学を導入。
英語での講義を行い、分類学や形態学を重視する近代的な教育を実践しました。
矢田部の最も重要な功績は、植物標本室の創設と充実です。
国内各地を自ら数十回にわたり採集旅行を行い、その標本を基に標本室を整備しました。
この標本室は、後の日本の植物学研究の基盤を築くことになります。
矢田部良吉の渡米と帰国後の活躍は、日本の植物学にとって画期的な出来事だったんですね。近代的な教育方法を取り入れた点も興味深いです。
牧野富太郎との出会いと別れ
牧野富太郎の才能を見抜いたのは誰?運命を変えた出会い!
矢田部教授。東大への出入りを許可。
牧野富太郎との出会いは、矢田部良吉の人生に大きな影響を与えました。
しかし、二人の関係は徐々に変化し、最終的には決裂を迎えることになります。

✅ 牧野富太郎は、NHK朝ドラ『らんまん』の主人公のモデルであり、日本植物分類学の基礎を築き、約40万枚の標本収集と1,500以上の新種・品種命名という業績を残した植物分類学の人物。
✅ 22歳の時に東京大学理学部植物学教室に出入りするようになり、初代植物学教授の矢田部良吉との出会いを通じて研究を進めた。
✅ しかし、最終的には矢田部教授との間でいざこざがあり、東大への出入りを禁止されるという出来事があった。
さらに読む ⇒日本文化と今をつなぐウェブマガジン - Japaaan出典/画像元: https://mag.japaaan.com/archives/196590才能ある牧野富太郎を見出し、東大への出入りを許可した矢田部教授の眼力は素晴らしいですね。
学問の世界でも、人間関係の難しさがあるのですね。
矢田部教授は、当時まだ無名の植物学者であった牧野富太郎の才能を見抜き、東京大学への出入りを許しました。
牧野は矢田部の下で学び、植物学への道を歩み始めます。
しかし、後に雑誌出版の方針の違いなどから、二人の関係は変化していきます。
牧野は自費出版の苦労や実家の経済的な問題にも直面しながら、日本の植物学研究に邁進しました。
矢田部と牧野の関係は、朝ドラ『らんまん』でも描かれたように、学問への情熱と、その中で生まれる様々な葛藤を象徴するものでした。
牧野富太郎との関係は、ドラマチックですね。学問の世界にも、色々な人間模様があるんだなと思いました。
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新種発見!日本の近代植物学を築いた矢田部良吉。学内での苦悩と早逝…その情熱と遺産は、日本の植物学を大きく発展させた。