京都占領とは?アメリカ軍進駐から終戦80年を前に考える占領下の京都の真実とは?終戦80年企画 知られざる京都の占領史
1945年、敗戦後の京都をGHQが占領。古都の静寂は揺るぎ、接収、食糧難、そして文化財の危機に直面。それでも、人々は文化を守り抜き、未来を模索した。本書は、知られざる占領下の京都の姿を、記録と人々の証言を通して描き出す。歴史の闇に光を当て、未来への教訓を刻む、必読の一冊。
💡 1945年、米軍が京都に進駐し、司令部を設置。主要施設が接収され、人々の生活に大きな影響を与えました。
💡 食糧難に苦しむ庶民の様子や、米穀通帳制度の導入など、占領下の生活が描かれています。
💡 京都御所や上賀茂神社など、文化財が接収の危機に。人々の抵抗や交渉の記録が残されています。
それでは、まず京都への米軍進駐について詳しく見ていきましょう。
嵐の前の静けさ:京都への米軍進駐
GHQ進駐で何が変わった?古都・京都はどうなった?
主要拠点が接収され、軍事利用された。
戦後、米軍は京都に進駐し、様々な施設を接収しました。
その背景には、日本の敗戦と占領体制の確立がありました。
公開日:2017/12/27

✅ 1945年9月、米第6軍が京都に進駐し、司令部を大建ビル(現・古今烏丸)に設置。都ホテルなど多数の施設を接収し、将兵の宿舎や司令部として使用した。
✅ 進駐軍は当初、東日本を第8軍、西日本を第6軍が担当し、年末には45万人に達したが、マッカーサーの指示で20万人に縮小。第6軍は朝鮮へ移動し、第1軍団が第8軍に統合された。
✅ 接収された施設の利用料は日本政府が終戦処理費から支払い、食料不足の中、庶民は食生活に苦労した。1946年には進駐軍の復員が開始された。
さらに読む ⇒出典/画像元: https://ghq.club/investigation_report/?p=5114/京都進駐の事実を改めて知ることができました。
当時の地図や写真も貴重な資料ですね。
1945年8月15日の日本の敗戦から間もなく、京都は新たな時代へと突入しました。
僅か2週間後の8月28日、厚木飛行場に先遣隊が到着し、9月には第6軍が京都への進駐を開始。
古都の静寂は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の登場によって大きく揺さぶられます。
マッカーサー元帥の指揮の下、京都の主要拠点が接収され、都ホテル、勧業館、旧陸軍兵舎などが軍事利用されることとなりました。
烏丸四条の大建ビルには第6軍司令部が置かれ、クルーガー大将がその任にあたりました。
京都という場所が、日本の歴史においていかに重要な意味を持っていたのか、よく分かりますね。占領軍が最初に目をつけたのも納得です。
占領下の生活:食糧難と人々の苦悩
京都の庶民を苦しめた食糧難の原因は?
凶作と人口増加、そして占領軍の存在。
食糧難は、占領下の日本、そして京都の生活を大きく変えました。
米穀通帳制度は、その一例ですね。

✅ 戦時体制下、食糧不足を背景に米の配給を管理するため、米穀通帳制度が導入された。
✅ 米穀通帳は、年齢や職業に応じた配給量を記録し、指定された日に配給所で米を受け取るために使用された。
✅ 戦争終結後も食糧難は続き、闇米の価格が高騰する中、輸入食糧や代替食糧で不足分を補おうとした。
さらに読む ⇒公文書に見る戦時と戦後-統治機構の変転-出典/画像元: https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/qa/qa13.html食糧不足は深刻だったことが伝わってきます。
人々がどのようにして食料を確保していたのか、もっと詳しく知りたいです。
進駐軍による接収は、日本政府の終戦処理費から施設使用料が支払われる形で進められましたが、その影で、京都の庶民は想像を絶する食糧難に直面しました。
1945年秋の凶作と人口増加が、この状況をさらに悪化させます。
空き地は食料を確保するための畑として利用され、人々は必死に生き抜こうとしました。
占領軍の存在は、人々の心に深い影を落とし、生活の基盤を揺るがすものでした。
食糧不足は本当に大変だったでしょうね。今の私たちが想像もつかないような状況だったと思います。
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古都・京都を襲った占領下の危機!GHQによる文化財接収、人々の生活への影響…知られざる歴史を紐解く。終戦80年、今だからこそ伝えたい真実。