鬼島津義弘とは?~木崎原の戦いから関ヶ原、そしてその生涯まで~?戦国最強の武将、島津義弘の軌跡
「鬼島津」と恐れられた猛将、島津義弘。戦国時代を駆け抜けた彼は、数々の合戦で武功を挙げ、島津家の勢力拡大に貢献。木崎原の戦いでの「釣り野伏せ」、関ヶ原の壮絶な撤退戦「島津の退き口」は語り草。豊臣秀吉、徳川家康の下での葛藤、朝鮮出兵での活躍を経て、その武勇と知略は戦国最強と称された。激動の時代を生き抜いた英雄の生涯を描く。
💡 島津義弘は、木崎原の戦いでの勝利や関ヶ原の戦いでの敵中突破など、数々の武勇伝を残した戦国武将です。
💡 島津義弘は、その知略と勇猛さで数々の戦を勝利に導き、九州地方の勢力拡大に大きく貢献しました。
💡 島津義弘は、関ヶ原の戦いでは西軍に属しながらも、不利な状況下で敵中突破を敢行し、生還を果たします。
本日は、戦国武将の中でも特に武勇で知られる島津義弘に焦点を当てて、その生涯を紐解いていきたいと思います。
まずは、島津義弘の生い立ちと功績から見ていきましょう。
鬼島津の誕生と武勇伝
鬼島津・島津義弘、数々の武功!代表的な戦いは?
木崎原の戦い、耳川の戦いなど。
島津義弘の誕生から、その武勇が世に知れ渡るまでを解説します。
公開日:2024/12/16

✅ 1572年6月14日に起きた木崎原の戦いは、島津義弘が10倍近い兵力の伊東祐安を破った戦いで、「九州の桶狭間」と称される。
✅ 島津義弘は、自身の居城や妻子が籠もる城を包囲された状況下、巧みな計略と伏兵、さらに地元民の協力などを駆使し、伊東軍を翻弄した。
✅ 島津義弘は、得意とする「釣り野伏」戦法を用い、伊東軍を混乱させ、伊東祐安を討ち取ることに成功し、島津家の勢力を九州全域に知らしめた。
さらに読む ⇒歴史街道出典/画像元: https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3840木崎原の戦いにおける島津義弘の活躍は、まさに圧巻ですね。
寡兵で大軍を打ち破るというのは、驚くべき戦略眼と実行力です。
1535年、後に「鬼島津」と恐れられる武将、島津義弘が誕生しました。
彼は島津家の次男として生まれ、厳しい祖父の教育を受け、兄弟との連携を重視する教えを胸に成長しました。
初陣となった岩剣城の戦いでの勝利を皮切りに、蒲生氏との戦いや伊東義祐との戦いなど、数々の戦で武功を重ねました。
兄・義久を支え、木崎原の戦いでは300の兵で3000の大軍を打ち破る「釣り野伏せ」戦術を駆使し、その戦略家としての才能を証明しました。
また、耳川の戦いでは大友宗麟を撃破し、島津家の勢力拡大に大きく貢献しました。
いやー、木崎原の戦いは何度聞いても興奮しますね!300の兵で3000を打ち破るなんて、まさに戦術の天才ですよ!
九州統一と朝鮮出兵
島津義弘、九州制覇から激動の時代!彼は何をした?
秀吉配下、朝鮮出兵で活躍し、泗川の戦で勝利。
義弘が九州統一や朝鮮出兵でどのような活躍をしたのか見ていきましょう。

✅ 島津義弘は兄である義久の家督相続後、九州制覇や朝鮮出兵で活躍し、泗川の戦いでは明・朝鮮連合軍を撃退した。
✅ 朝鮮出兵後の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敵中突破を敢行するも多くの兵を失い薩摩へ帰還。
✅ 戦後、義弘の三男忠恒が薩摩藩主となり、琉球侵攻を成功させた。
さらに読む ⇒戦国サプリメント戦国未満出典/画像元: https://sengokumiman.com/shimazuyoshihiro.html豊臣秀吉に降伏し、その配下として朝鮮出兵に参加したことは、義弘の柔軟性を示すエピソードですね。
泗川の戦いでの活躍も目覚ましいです。
島津家は九州制覇を目指し、義弘は中心人物としてその実現に尽力しました。
しかし、豊臣秀吉の九州征伐により降伏し、秀吉の配下となります。
その後、上洛し羽柴の姓と豊臣の本姓を与えられ、豊臣政権下では協力的な姿勢を示し、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に参加しました。
文禄の役では江原道で活躍し、慶長の役では漆川梁海戦で貢献。
泗川の戦いでは少数の兵力で明・朝鮮連合軍を破り、その軍事能力は高く評価されました。
義弘は朝鮮半島での戦闘や劣悪な環境下での苦戦を乗り越え、その指揮能力と勇猛さを示しました。
朝鮮出兵って、当時はどんな状況だったんですか?詳しく知りたいです!
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戦国最強と謳われた島津義弘。「鬼島津」と呼ばれた男の壮絶な生涯!関ヶ原の退き口、琉球侵攻…武勇伝と知略が詰まった激動の人生を凝縮。