藤原隆家とは?荒くれ者と呼ばれた貴族の生涯を紐解く!藤原隆家の波乱万丈な人生:権力闘争、左遷、そして刀伊の入寇
型破りな貴族、藤原隆家。道隆の息子としてエリート街道を疾走するも、型破りな行動で周囲を翻弄。権力闘争と左遷、果ては異国からの侵略「刀伊の入寇」を撃退し武名を轟かせる。自由奔放な生き様は、激動の時代を駆け抜けた証。彼の名は、今もなお語り継がれる。
💡 藤原隆家は、摂関家の一員として生まれながら、権力闘争に巻き込まれ、左遷などを経験しました。
💡 彼は、刀伊の入寇で活躍し武名を馳せましたが、政治的には苦難が続きました。
💡 型破りな性格で知られ、その逸話は現代にも語り継がれています。
さて、本日は藤原隆家の生涯を様々な角度から見ていきましょう。
まずは、彼の人生を要約した3つのポイントからご紹介します。
エリート貴族の誕生と政治の世界への道
藤原隆家はどんな環境で育ちましたか?
エリート家系
さて、第一章では、藤原隆家の生い立ちと、彼がどのようにして政治の世界に入っていったのかを見ていきましょう。

✅ 藤原隆家は藤原氏の中でもエリートの家系に生まれながら、叔父・道長との権力争いに敗れ、左遷された経験を持つ。
✅ 長徳の変と呼ばれる事件の後、隆家は道長の恩赦で京に戻り、中納言まで昇進する。しかし、道長の策略により大宰府に赴任させられ、そこで刀伊の入寇を鎮める活躍を見せる。
✅ 隆家は九州の勢力をまとめ上げる才覚を持ち、道長からも一目置かれていたが、道長や頼通の政治力によって中央での地位は限定され、晩年は再び大宰権帥として過ごした。
さらに読む ⇒ニュース出典/画像元: https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/572b748b1843e648b69c646224adb1124a08625b隆家は、父の道隆が摂関政治の最盛期を築いた時代に、華々しい経歴をスタートさせました。
しかし、周囲との軋轢もあり、その後の道は平坦ではありませんでしたね。
藤原隆家は、藤原道隆と高階貴子の次男として天元二年(979年)に生まれました。
父・道隆は、摂関家の中でも中関白家と呼ばれる一族の当主で、隆家は一族の期待を一身に背負うエリート家系の一員でした。
隆家は幼い頃から父の道隆の庇護のもと、急速に昇進し、16歳で従三位にまで上り詰めます。
これは、祖父・兼家が右大臣の地位にあり、摂関獲得の準備を進めていたこと、そして父・道隆が兼家の後継者として順調に昇進していたことによる影響が大きかったと考えられます。
しかし、隆家を含む道隆の子息たちの急激な昇進は、公卿たちの反感を買い、特に伊周は周りの公卿とのトラブルが絶えませんでした。
道隆は政権を強化するため、正暦五年(994年)に大きな人事異動を行い、道兼を右大臣、伊周を内大臣、道頼を権大納言、隆家を従三位に昇進させました。
隆家は若くして高い地位を得たものの、周囲との軋轢を抱えながら、複雑な政治の世界に足を踏み入れていくことになります。
なるほど、隆家はエリート家系に生まれながらも、必ずしも順風満帆な人生ではなかったんですね。16歳で従三位って、すごいですね! 祖父や父の影響も大きかったんですね。
荒くれ者として知られた隆家の逸話
藤原隆家はどんな性格だった?
自由奔放な荒くれ者
次に、第二章では、隆家の型破りな性格がよくわかる逸話を見ていきましょう。
当時の常識を覆すような行動が、興味深いですね。

✅ 藤原師輔の孫である藤原道隆は、父である藤原兼家の策略により、一条天皇の即位を促し、自身も摂政となり権力を掌握しました。
✅ 道隆は、一条天皇の生母である定子を中宮に迎え、自身の娘である原子を皇太子の妃とするなど、後宮政策を強化し、摂関家の権勢を強固なものにしました。
✅ 道隆は病に倒れ、嫡男の伊周に後継を託そうとしましたが、伊周は関白の位を継承することができず、弟の道兼が関白となりました。道隆の死後、道兼も早逝し、摂関家の権力は衰え、道長の台頭を招くことになります。
さらに読む ⇒出典/画像元: https://www.his-trip.info/keizu/f601.html隆家の自由奔放な性格がよく表れていますね。
権力や格式に縛られない姿は、現代の人々にも共感を呼ぶのではないでしょうか。
藤原隆家は、藤原道隆の四男で、幼い頃から「さがなもの」と呼ばれ、荒くれ者として知られていました。
兄・藤原伊周と共に急速に出世し、父の道隆の影響で公卿に列しました。
隆家は高貴な人の家の前を遠慮なく通り過ぎるなど、当時のしきたりを無視する行動が目立ちました。
特に太政大臣・藤原頼忠の家をわざとゆっくり通り過ぎた際は、頼忠から「思いやりのない男だ」と非難されました。
また、花山院との間では、隆家が花山院邸の前を牛車で通り過ぎるという賭けのような出来事が起こりました。
花山院は屋敷の前を固め、隆家の牛車行列は突破できませんでした。
隆家は「皇威はすごい」と認めつつも、面白がって笑っていたとされています。
これらのエピソードから、隆家は権力や格式に縛られない自由奔放な性格だったことが伺えます。
荒くれ者でありながらも、その豪快な行動は人々を魅了し、彼の名を後世に語り継がせることになりました。
いやー、隆家、面白いですね! 権威に屈しないというか、ちょっと破天荒な感じがたまりません。花山院とのエピソードとか、現代でも笑えそう!
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一条天皇を支え、武功も上げた藤原隆家。権力闘争、左遷、異国からの襲撃…激動の時代を生き抜いた貴族の波乱万丈な生涯を描く!