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藤原公任とは?才能と、光る君へでの描写とは?(光る君へ、三舟の才)一条朝を彩った文化人、藤原公任の生涯

平安貴族、藤原公任。名門の血筋ながら、口の悪さで失言も。道長との確執、姉の不遇など、政治の波に翻弄されながらも、和歌の才能を開花。紫式部も一目置く歌人として名を馳せる。才能と挫折が交錯する、公任の波乱万丈な生涯を描く。光る君へ第15回では、疫病の流行という新たな展開も。

藤原公任とは?才能と、光る君へでの描写とは?(光る君へ、三舟の才)一条朝を彩った文化人、藤原公任の生涯

📘 この記事で分かる事!

💡 藤原公任は、学問と和歌に秀でた平安貴族。「三舟の才」と称されるほどの才能を持ち、一条天皇の時代に活躍しました。

💡 政治家としては、藤原道長の台頭により苦難を経験。しかし、文化人として『和漢朗詠集』を編纂するなど、多大な功績を残しました。

💡 大河ドラマ「光る君へ」では、藤原公任がどのように描かれるのか。史実との違いや、その人物像に迫ります。

それでは、藤原公任の生い立ちから晩年、そして彼が登場する大河ドラマでの描写を通して、その実像に迫っていきましょう。

若き日の藤原公任

藤原公任はどんな人物だった?

名門出身の才人

藤原公任の生い立ちから、その才能が開花するまでの道のりを見ていきましょう。

藤原公任、実際はどんな人だった?人の娘を亡くした波乱の晩年
藤原公任、実際はどんな人だった?人の娘を亡くした波乱の晩年

✅ 藤原公任は、藤原摂関家の嫡流で、学才があり将来を期待されていました。しかし、一条天皇の即位によって権力の座が藤原兼家に移り、公任の出世は停滞してしまいます。

✅ その後、道長に接近し、学問分野で道長をサポートするようになりました。娘を道長の息子の正室にすることに成功させるなど、政治的な駆け引きも見せています。

✅ 公任は和歌の才能に優れ、「三舟の才」という逸話が残っています。百人一首に採用されている「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど」という歌は、その才能を証明するものです。

さらに読む ⇒和樂美の国ニッポンをもっと知る!出典/画像元: https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/239400/

藤原公任の生い立ちを知ると、彼の持つ才能が際立って見えますね。

名門の出身でありながら、政治的な駆け引きや、和歌の才能で頭角を現した姿は興味深いです。

藤原公任は、966年に生まれ、藤原頼忠の長男として、名門一族の出身です。

15歳の元服は円融天皇の御前で盛大に行われ、正五位下という異例の官位を与えられました。

順調に昇進する一方、若気の至りで右大臣藤原兼家の邸の前で「このお宅の姫君は、いつお后になられるのでしょうね」と軽口を叩き、周囲から失言と評されました。

その後、藤原公任の姉は子を産めず、藤原兼家の娘が産んだ皇子は一条天皇に即位し、藤原公任は「皇子を産まない姉上はどちらにおいでですか」と痛烈な仕返しを受けました。

藤原公任は同世代の貴族仲間と和歌や漢詩の腕を競い合い、藤原道長とも親しく交流していました。

藤原道長が長女の入内を祝うために和歌を依頼した際、藤原公任は「駄作しか作れなかったので献上したくない」と言い、他の歌人も批判するなど、口が悪いながらも素晴らしい和歌を詠み上げました。

藤原公任の華々しい経歴と、政治的な駆け引きには驚きました。あの軽口が彼の運命を左右したとは…歴史って面白いですね!

政治家としての藤原公任

藤原公任はどんな才能を持っていた?

政治家と文学者

藤原公任が政治家として、また文化人としてどのような功績を残したのか見ていきます。

倭漢朗詠集』(藤原公任撰・藤原行成筆)昭和期版
倭漢朗詠集』(藤原公任撰・藤原行成筆)昭和期版

✅ 「倭漢朗詠集」は、藤原公任が編纂した歌集で、平安時代中期の寛仁二年頃に成立したとされています。公任の娘と藤原教通の結婚祝いの引き出物として贈られたもので、藤原行成が清書した粘葉装本に仕立てられたとされています。

✅ 公任は一条天皇の治世を支え、「一条朝の四納言」の一人として知られており、政治、文芸ともに名門の出でした。また、源氏物語を紹介した初出の記録が残っていることでも有名です。

✅ 「倭漢朗詠集」は、倭歌二百十六首と漢詩五百八十八詩を収録しており、古今和歌集の構成を模範にして、春夏秋冬の歌、雑歌を収録しています。下巻の「祝」部には、君が代の原詩が掲載されています。

さらに読む ⇒出典/画像元: http://www.winbell-7.com/roman/mokuroku/nihon-1/nihon0010008.html

『和漢朗詠集』は、当時の文化を知る上で貴重な資料ですね。

藤原公任が、政治と文芸の両方で活躍したというのは、まさに「才色兼備」という言葉がぴったりですね。

藤原道長が実権を握った後、藤原公任は関白・太政大臣にはなれませんでしたが、大納言として政権を支え、文化人としても「和漢朗詠集」や「拾遺抄」などの名作を残しました。

藤原公任は、政治家としてだけでなく、優れた文学者としても才能を発揮した人物と言えるでしょう。

藤原公任は、歌集の編纂もしていたんですね!政治家としての顔だけでなく、文化面でも貢献していたなんて、本当に多才な人だったんですね。

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道隆政治に揺れる朝廷。まひろは『蜻蛉日記』に触れ、疫病が蔓延。公任は才能を発揮するも、道長の影に苦悩。歌才光るも、政治家としての葛藤が描かれる。