源重信とは?平安貴族の生涯と、大河ドラマ『光る君へ』での描かれ方とは?宇多源氏、武官・公卿として活躍した平安貴族
平安貴族・源重信。宇多天皇の血を引く彼は、武官から公卿へと昇進し、左大臣にまで上り詰めた人物。安和の変で一時失脚するも、その後見事に復帰。皇太后大夫や皇太子傅を務め、三条天皇を支えた。人懐っこい性格で愛された重信の生涯は、大河ドラマ『光る君へ』でも描かれる。平等院のルーツも彼にあり、多才な人物像に迫る。
💡 源重信は、平安時代中期の公卿で、宇多天皇の血を引く宇多源氏の一人として生まれました。
💡 武官としても活躍し、最終的には左大臣にまで昇進。政治の世界でも手腕を発揮しました。
💡 音楽にも造詣が深く、笙や笛を嗜むなど、多才な人物でした。宇治の別荘は平等院に。
それでは、源重信の生涯を詳しく見ていきましょう。
まずは、重信の生い立ちと出自から。
宇多源氏、源重信の誕生と出自
源重信はどの天皇の子孫?
宇多天皇
本日は源重信について深く掘り下げていきます。
宇多源氏としての出自、そしてその後の活躍について紐解いていきましょう。

✅ 宇多源氏は宇多天皇を祖とする源氏の系統であり、記事では寛信/重信、致方、道方、経信、経隆、基綱、俊頼の7名の源氏について記述されています。
✅ これらの源氏は平安時代を通じて官人や公卿として活躍し、音楽や和歌、雅楽などに才能を発揮した人物が多く、特に経信は当代一の歌人とされ、後拾遺和歌集に対する批判を著すなど、和歌の世界に大きな影響を与えました。
✅ また基綱は琵琶の名人として知られ、経信流を受け継ぎ、子の時俊、信綱、僧良祐に伝えたことは、雅楽史において重要な役割を果たしました。
さらに読む ⇒出典/画像元: https://www.his-trip.info/keizu/g722.html宇多源氏の系譜、音楽や和歌の才能、興味深いですね。
特に、基綱が琵琶の名人だったというのは、雅楽史的にも重要なポイントですね。
源重信は、延喜22年(922年)に敦実親王と藤原時平の娘との間に生まれました。
父は皇族でしたが、重信の代には一般人に格下げとなり、源姓を賜りました。
宇多天皇の子孫であったことから、宇多源氏と呼ばれています。
重信は成長後、藤原朝忠、源高明、藤原師輔、藤原頼忠の娘たちと結婚し、多くの子供をもうけました。
なるほど、宇多源氏の中でも重信は重要な位置を占めるんですね。父が皇族だったのに臣籍降下というのは、当時の政治情勢を反映しているのでしょうか。
順調な出世、武官としての活躍
源重信はどんな官職を歴任した?
武官、公卿
重信の出世と武官としての活躍、興味深いですね。
大河ドラマとの関連性も楽しみです。
公開日:2023/12/24

✅ 源重信は、源雅信の弟で、音曲に通じ、朗詠・笙・笛をよくした人物として、大河ドラマ「光る君へ」で描かれます。
✅ 史実では、敦実親王と藤原時平の娘を両親に持ち、宇多天皇の孫にあたり、源氏として臣籍降下しました。兄の源雅信と比べて出世が遅く、晩年には兄の後を継いで居貞親王(三条天皇)の教育役を務めました。
✅ 記事では、源重信の生涯年表と、大河ドラマ「光る君へ」の世界をより深く理解するのに役立つ関連書籍が紹介されています。
さらに読む ⇒出典/画像元: https://www.onestep-mugi.com/post/hikarukimie_shigenobu01兄と比較して出世が遅かったというのは意外ですね。
晩年に居貞親王の教育役を務めたというのは、彼の人物像を表しているようです。
源重信は、承平7年(937年)に二世王待遇の蔭位により従四位下に直叙され、順調に出世を重ねていきました。
天慶4年(941年)には侍従に任ぜられ、その後、左馬頭を経て、天暦5年(951年)には従四位上・右近衛権中将に、天暦9年(955年)には左兵衛督に任ぜられ、朱雀朝末から村上朝前半にかけて武官を歴任しました。
天徳4年(960年)には参議に任ぜられ公卿に列しました。
その後、議政官として修理大夫を長く兼帯しながら、順調に昇進し、応和元年(961年)には正四位下、同年には正四位上、応和3年(963年)には従三位となりました。
源重信って、兄に比べて出世がゆっくりだったんですね。大河ドラマでもその辺りが描かれるのでしょうか?楽しみです!
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安和の変で苦難を味わうも、左大臣まで上り詰めた源重信。人懐っこい性格で多くの人に愛され、平等院の礎を築いた人物。大河ドラマでも注目!