軍艦島(端島)の歴史と現在:世界遺産は今、何処へ?(軍艦島、炭鉱、世界遺産?)軍艦島の栄枯盛衰:近代化と記憶の島
かつて5000人以上が暮らした、長崎・端島(軍艦島)。石炭採掘で栄華を極めた明治〜昭和の歴史を刻む島は、日本の近代化を支えた象徴。高層住宅群は、戦時下の過酷な労働と生活を物語る。閉山後の廃墟は、世界遺産登録後も老朽化が進み、保存が急務。栄光と衰退、保存と活用…軍艦島の歴史と未来に迫る。
💡 軍艦島は、日本の近代化を支えた海底炭鉱の島で、最盛期には5,000人以上が生活しました。
💡 閉山後、無人島となり廃墟と化した軍艦島は、世界文化遺産に登録され、観光地として注目を集めています。
💡 老朽化による建物の崩壊や、世界遺産としての登録問題など、軍艦島は様々な課題に直面しています。
それでは、軍艦島の歴史を紐解き、その成り立ちから現在抱える問題まで、詳しく見ていきましょう。
炭鉱島の誕生
端島が活況を呈したのはなぜ?
石炭採掘のため
軍艦島は、日本の近代化を支えた重要な炭鉱の一つであり、その発展と衰退は日本の歴史そのものです。
当時の技術や労働環境についても触れています。

✅ 端島炭鉱は、三菱によって開発された海底炭鉱であり、島の下にある炭層から海面下1,010メートルまで坑道を掘り、石炭を採掘していました。高温多湿な環境で、機械化が難しく、多くの作業が人力で行われていました。
✅ 日本の炭鉱の歴史は、明治時代の近代化とともに発展し、石炭は日本の産業を支える重要な資源となりました。しかし、昭和時代に入ると、石油の大量輸入や採掘現場の遠隔化などの問題により、炭鉱は衰退し、20世紀末にはほとんどの炭鉱が閉山しました。
✅ 石炭は、埋蔵量が豊富で場所を選ばずに採掘できるエネルギー資源として、発電、製鉄、工場など幅広い分野で使用されてきました。しかし、石油に比べて環境負荷が大きく、近年では地球温暖化対策として石炭の使用量を減らす動きが進んでいます。
さらに読む ⇒【上陸レポート有り】軍艦島の歴史と今を総力特集!~軍艦島ガイド【完全版】~出典/画像元: https://www.gunkanjima-excursion.com/coalmine/高温多湿という過酷な環境下での人力による採掘作業は、想像を絶するものであったと思います。
石炭が、いかに重要な資源だったのかがわかります。
明治時代、長崎県長崎市の沖合にある端島は、石炭の採れる島として注目を集めていました。
1810年に石炭が発見され、1887年には最初の竪坑が開坑され、三菱が経営を引き継ぎました。
1890年、三菱は端島炭坑を10万円で買収し、本格的な採掘が始まりました。
その後、島は埋め立てられ、巨大建造物群が建設され、最盛期には5000人以上の島民が住むようになりました。
確かに、三菱の経営戦略と、石炭という資源の重要性がよくわかりますね。当時の人々の生活にも思いを馳せると、感慨深いです。
繁栄と苦難
端島はどんな島だった?
炭鉱島
軍艦島が、日本の近代化を支える上で非常に重要な役割を果たしていたことがよくわかります。
しかし、同時に暗い側面もあったのですね。
公開日:2015/06/25

✅ 「明治日本の産業革命遺産」の登録を巡り、韓国政府から強制労働の歴史に関する異議申し立てがあり、登録が危ぶまれている。
✅ 韓国政府は、7施設から軍艦島を含む7施設の登録撤回ではなく、対象施設の説明に強制徴用の歴史を反映させるという妥協案を提示している。
✅ 日本政府は、遺産の対象時代とは異なるとして、韓国側の主張を受け入れず、議論は平行線をたどっている。
さらに読む ⇒論座アーカイブ出典/画像元: https://webronza.asahi.com/national/articles/2015061800003.html戦時中の食糧不足や、厳しい生活環境については胸が痛みます。
それでも、島の人々は結束して生活していたのでしょう。
明治時代から昭和時代にかけて、端島は日本の近代化を支える重要な炭鉱島として発展しました。
炭鉱の開発に伴い、人口は増加し、高層集合住宅や病院、学校、商店、映画館など、生活に必要な施設が整備されました。
特に、戦時中は年間出炭量がピークに達し、約3200人が住む日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が建設され、人口密度日本一を誇りました。
当時、端島小学校は朝鮮人労働者の子供も含め、区別なく通学していました。
しかし、戦時中は食糧不足に陥り、厳しい生活を強いられました。
高層住宅や学校、商店など、生活に必要なものが島に揃っていたのは驚きです。でも、戦時中の状況は辛かったでしょうね。
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軍艦島、かつての栄華と廃墟美が融合。世界遺産ながら老朽化が進む。保存と活用が課題。近代日本の歴史を今に伝える。