山中城の攻防戦とは?豊臣秀吉と北条氏の戦いを徹底解説!(?)山中城合戦!難攻不落の山城と激戦の記録
戦国時代最後の激戦地、山中城。難攻不落を誇った北条氏の要塞は、秀吉軍の猛攻にどう立ち向かったのか? わずか半日で落城した衝撃の真実を、地形を活かした緻密な防御、激戦の様子、そして天下統一をかけた武将たちの熱い思いと共に紐解く。土の城ならではの魅力、障子堀などの見どころも満載。歴史好きも城郭ファンも必見!
💡 山中城は、北条氏が築いた国境警備の要衝であり、東海道を抑える重要な拠点だった。
💡 豊臣秀吉による小田原征伐において、山中城は激戦地となり、秀吉軍の猛攻の前に落城した。
💡 障子堀や畝堀など、北条氏独自の築城技術が用いられ、土造りの城としては最強の防御力を誇った。
それでは、山中城に関する様々な情報と、小田原征伐におけるその役割について紐解いていきましょう。
北条氏と山中城 国境要塞の構築と攻防
北条氏の山中城はどんな役割を担っていた?
箱根越え阻止、小田原城防衛
まず、小田原征伐に至るまでの経緯と、山中城が置かれた状況を説明いたします。
公開日:2019/06/18

✅ 秀吉は北条氏に後陽成天皇の聚楽第行幸への列席を求めたが、北条氏はこれを拒否し、さらに秀吉の裁定を無視して真田領の名胡桃城を奪取した。
✅ 秀吉は北条氏の度重なる反抗に怒り、北条討伐を決意し、小田原征伐を開始した。
✅ 小田原征伐には、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家、織田信雄、蒲生氏郷など、多くの武将が参加し、秀吉軍は北条氏を包囲し、最終的に北条氏は降伏した。
さらに読む ⇒戦国バトルヒストリー出典/画像元: https://www.sengoku-battle-history.net/odawaraseibatsu/北条氏の頑強な姿勢と、秀吉の怒りが伝わってきますね。
秀吉軍の武将たちの顔ぶれも豪華で、いかに重要な戦いだったかが分かります。
戦国時代末期、北条氏は、小田原城を本城とし、山中城を重要な支城としていました。
山中城は、箱根山中腹に位置し、箱根道の制圧と領国の国境警備を目的として築かれた軍事的な城でした。
北条氏は、東海道を攻めてくる豊臣秀吉軍に対して、足柄城、韮山城、山中城の三つの城を防御ラインとし、山中城は箱根越えを阻止する関所として、小田原城への進軍を食い止める役割を担っていました。
山中城は、東海道を中心にして両翼を広げるように展開しており、本丸、二の丸、北の丸を中心として西側に西の丸と西櫓が置かれています。
また、街道を挟んで南側には岱崎出丸が突き出し、発掘調査から改修中に秀吉軍の来襲を受けたことがわかっています。
西の丸と西櫓も、東海道からの敵に備えて拡張されたと考えられています。
北条氏の城は、緻密で理路整然とした設計が特徴で、本丸を囲む土塁や曲輪をめぐる空堀の規模は壮大です。
曲輪間の連携や迎撃のラインも見事な縄張りとなっており、兵力が互角であれば攻略は困難だったと考えられています。
山中城の戦いは、豊臣秀吉が小田原征伐を進める中で、家臣の羽柴秀次と北条氏方の山中城城主・松田康長が繰り広げた攻城戦です。
北条氏は、山中城に家臣の北条氏勝や間宮康俊を援軍として送り込み、秀吉軍の侵攻を阻止しようとしました。
山中城は、東海道が箱根峠に達する手前に築かれた要塞で、秀吉軍にとって通過を阻止する重要な関門となっていました。
そのため、北条氏は山中城を死守するため、障子掘りや畝掘り、岱崎出丸などの防御施設を増強していました。
岱崎出丸は、街道に沿って築城され、街道から攻めあがる敵の側面を攻撃できるよう設計されていました。
山中城は、東海道を抱え込むような縄張りで、両側に谷がある山の尾根上に築かれたため、秀吉軍は軍を広く展開することができず、縦に長い隊列を組まなければなりませんでした。
北条氏は、山中城の防御を固め、豊臣軍の進軍を阻止しようとしましたが、最終的には秀吉軍の猛攻の前に落城しました。
この戦いは、秀吉の天下統一を確実なものとしただけでなく、小牧・長久手の戦いで敗北した秀次の汚名をそそぐための決死の覚悟と、功名を上げようとする宿老たちの奮戦が背景にあったと考えられています。
なるほど、北条氏の強固な守りと、秀吉軍の圧倒的な力、そして山中城の地形的特徴が見事に解説されていますね。当時の状況が手に取るように分かります!
山中城合戦 完成前の城と激戦
山中城攻防戦で、豊臣軍はどんな戦いを繰り広げた?
力攻め
次に、山中城合戦における詳細な状況と、その結果について見ていきましょう。
公開日:2022/07/14

✅ 山中城は、静岡県三島市にある標高570mの平山城で、小田原城の支城として北条氏が築城しました。東海道の交通要所の抑えとして戦略的に重要な位置にあり、駿河湾と富士山を望む壮大な景観を持つ堅城です。
✅ 山中城は、武田信玄の侵攻に備え、北条氏康によって築城され、その後豊臣秀吉の小田原攻めに備え、北条氏政の時代に改修工事が行われました。 1590年、豊臣秀吉軍による小田原攻めの際に激しい戦闘が行われ、山中城は陥落し、城主の松田康長も戦死しました。
✅ 山中城の戦いは、北条氏と豊臣氏の戦いを象徴する重要な戦いの一つであり、北条氏の築城技術や防衛戦略の巧みさ、そして豊臣軍の圧倒的な兵力と戦略を見ることができます。 戦争時の壮絶な様子や戦国時代の歴史を今に伝える貴重な史跡として、現在も多くの観光客が訪れています。
さらに読む ⇒お城解説「日本全国」情報【城旅人】出典/画像元: https://sirotabi.com/13838/完成前の山中城が、わずか半日で落城したという事実に驚きました。
秀吉軍の物量作戦の凄まじさを感じます。
また、秀次の想いも切ないですね。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による後北条氏征伐が開始されました。
秀吉軍は、3軍に分かれて小田原城を目指し、山中城は東進する豊臣秀次・徳川家康軍の進路を阻む要衝として、北条氏勝が守備にあたりました。
山中城は完成前で、兵力も不足していましたが、北条氏の築城技術と強固な防御によって豊臣軍は苦戦を強いられました。
秀吉軍は、徹底的な力攻めを行い、南側出丸群、三の丸、二の丸といった城の要所を次々と陥落させていきました。
山中城攻防戦において、激戦が繰り広げられたことが、渡辺勘兵衛了の手記から明らかになっています。
例えば、大手口の攻略を担当していた一柳直末は、城側の猛射にあって戦死しました。
渡辺勘兵衛が大手口に到着したときには、そこには数十人の死傷者が転がっていたといいます。
また、岱崎出丸では、玉縄衆と中村一氏が激戦を交えたとされています。
最終的に北条氏勝は城を脱出し、山中城は豊臣軍の勝利に終わりました。
この戦いは、完成前の山中城がわずか半日で落城した事実から、豊臣軍の圧倒的な戦力を示した戦いとして歴史に刻まれています。
また、豊臣秀吉が、損害を承知で力攻めを選んだ点や、北条氏勝が城を脱出した点も、この戦いの特徴的な要素として挙げられます。
この戦いは、秀吉の天下統一を確実なものとしただけでなく、小牧・長久手の戦いで敗北した秀次の汚名をそそぐための決死の覚悟と、功名を上げようとする宿老たちの奮戦が背景にあったと考えられています。
戦国時代最大の攻城戦と言われる山中城合戦は、出世レースに勝ち残ろうとする武将たちの悲痛な思いを物語っています。
山中城の戦いは、本当に激戦だったんですね。渡辺勘兵衛の手記や、一柳直末の戦死など、具体的なエピソードが当時の様子を物語っていて、とても興味深いです!
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戦国最強の土の城「山中城」!障子堀や土塁など、土造りの要塞を体感!歴史的背景を知り、戦国ロマンに浸ろう。初心者も安心、散策コース充実。