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名刀「へし切長谷部」とは?織田信長と黒田官兵衛を繋ぐ名刀の秘密に迫る!名刀「へし切長谷部」:信長・官兵衛・現代

戦国武将・織田信長が愛した名刀「へし切長谷部」。信長が家臣を斬った逸話から名付けられたこの刀は、国宝に指定され、現在は福岡市博物館に。精巧な刀身、歴史的価値、そして刀剣乱舞での人気も相まって、時代を超えて人々を魅了し続ける。黒田家の家宝として受け継がれた名刀の物語を紐解く。

名刀「へし切長谷部」とは?織田信長と黒田官兵衛を繋ぐ名刀の秘密に迫る!名刀「へし切長谷部」:信長・官兵衛・現代

📘 この記事で分かる事!

💡 「へし切長谷部」は、織田信長が愛した名刀で、黒田官兵衛に下賜されたとされる。

💡 刀工・長谷部国重によって作られ、信長の残虐性を示す逸話「圧し切り」が名前の由来。

💡 現在は福岡市博物館に所蔵され、刀剣乱舞などの影響で現代でも人気を集めている。

本日は、この名刀「へし切長谷部」に関する様々な情報をお届けいたします。

まずは、この刀の歴史的な背景から見ていきましょう。

名刀「へし切長谷部」とその製作者

へし切長谷部は何で作られた刀?

日本刀

この章では、名刀「へし切長谷部」の製作者とその歴史的背景について解説します。

福岡市博物館ブログ【ふくおかの名宝】観賞ガイド⑧国宝刀名物「圧切長谷部」(へしきりはせべ)
福岡市博物館ブログ【ふくおかの名宝】観賞ガイド⑧国宝刀名物「圧切長谷部」(へしきりはせべ)

✅ 織田信長が黒田孝高に与えた刀「圧切長谷部」は、南北朝時代の刀工・長谷部国重が作った刀で、信長が孝高の才能を見抜き、中国攻めの策を進言した際に褒美として与えたものです。

✅ 「圧切」という名前は、信長が茶坊主を手討ちにする際に、棚の下に刀を押し当てて斬ったことから名付けられたとされ、非常に鋭い切れ味を持つ刀であったことを示しています。

✅ 「圧切長谷部」は、黒田家家に伝わる刀として、信長と孝高の関係、そして孝高の才能が信長に認められた象徴的な存在となっています。

さらに読む ⇒福岡市博物館ブログ出典/画像元: http://fcmuseum.blogspot.com/2020/10/blog-post_30.html

長谷部国重という名工が作った刀という事、信長が愛用し、黒田家に渡った経緯が興味深いですね。

「へし切長谷部」は、南北朝時代に山城国の刀工、長谷部国重によって作られた日本刀(打刀)です。

正宗十哲の一人として名高い長谷部国重は、卓越した技術を持つ刀工として知られており、その作品は高い評価を受けています。

へし切長谷部は、その中でも特に有名な刀の一つです。

へし切長谷部は、元々は「大太刀」でしたが、後に「太刀」に磨り上げられ、「打刀」にされた刀です。

そのため、元の銘は消えてしまっています。

しかし、安土桃山時代の刀研師、本阿弥光徳が鑑定し、「名匠・長谷部国重の作」であるとされ、茎にその鑑定名が刻まれています。

へし切長谷部の刀身は、刃長が2尺1寸4分弱(64.8㎝)、反りが0.9~1cm、元幅が3.0㎝、先幅が2.5㎝、切先長が5.9㎝、茎長が16.7㎝です。

造込は鎬造で、棟は庵棟となっています。

地肌は詰んだ小板目肌に地沸と地景が入ります。

刃文は全体的に皆焼ですが、上半は湾れに小乱れ交じり、下半は大乱れ主体となり小沸がつき、刃中には砂流しや金筋などの働きが盛んに入ります。

帽子は乱れ込んで返り、表裏の鎬に幅狭の棒樋を掻き通します。

茎は尻を刃上がり栗尻として切の鑢目をかけて、目釘穴を4つ打っています。

差表には「黒田筑前守」の所持銘があります。

へし切長谷部は、その歴史的価値と芸術的価値から、昭和8年に重要美術品に認定され、昭和11年には国宝に指定されました。

現在は、福岡市博物館に所蔵されており、多くの来館者から注目を集めています。

詳細な情報ありがとうございます! 刀身の細かな情報まで解説されていて、とても勉強になりました。特に、刀工の名前と、その刀が持つ歴史的背景に惹かれますね。

織田信長と「へし切長谷部」

信長が愛した刀の名前は?

へし切長谷部

この章では、織田信長と「へし切長谷部」の関係に焦点を当てます。

殿は刀剣コレクター!約本のコレクションがあったという武将・織田信長が愛した名刀たち
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✅ 織田信長は500本もの刀のコレクションを持ち、刀好きとして知られており、彼が好んだ刀は彼自身の性格や戦術と関連付けられています。

✅ 信長の最も有名な愛刀は「へし切長谷部」で、鎌倉の名工「長谷部国重」によって作られました。「へし切」という名前は信長が茶坊主を膳の上から斬りつけたという逸話に由来します。

✅ 織田信長は、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った際に使用したとされる「義元左文字」という刀も所有していました。

さらに読む ⇒日本文化と今をつなぐウェブマガジン出典/画像元: https://mag.japaaan.com/archives/156594

信長が刀好きであったこと、そして「へし切長谷部」の由来となったエピソードは興味深いですね。

信長の人物像を物語るエピソードですね。

織田信長は、1534年に生まれ、1582年に本能寺の変で亡くなった戦国時代の武将です。

幼少期は「大うつけ」と呼ばれながらも、武芸に長けていました。

1551年に家督を相続し、尾張国統一桶狭間の戦い、美濃国獲得、足利義昭の擁立など、数々の功績をあげました。

1573年には室町幕府を滅亡させ、天下統一を目前にしていましたが、家臣の明智光秀の謀反により命を落としました。

信長は、茶坊主の観内を「圧し切り」にした際に、この刀を用いたことから「へし切長谷部」という名がついたとされています。

信長が観内を御膳棚ごと圧し切ったという逸話は、信長の残忍さを物語るエピソードとして有名です

観内の侮辱に激怒した信長は、観内を執拗に追いかけまわし、台所の棚の下に隠れた観内を見つけると、「出て来ぬなら、このまま圧し切る!」と、棚ごと観内を真っ二つに圧し切ったとされています。

信長は、へし切長谷部を愛刀としていたとされ、その後、豊臣秀吉に贈られたとされています。

信長がそんなに刀が好きだったとは知りませんでした!「へし切長谷部」の名前の由来となったエピソードは、少し怖いですが、信長の性格を表しているようですね。

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信長から黒田官兵衛に贈られた名刀「へし切長谷部」。家宝として受け継がれ、刀剣乱舞でも活躍!福岡市博物館でその姿を見よう。