源頼政の生涯:武士、歌人、そして反逆者?宇治川の戦いと源平の動乱。
平安末期の武士、源頼政。鳥羽法皇に仕え、歌人としても名を馳せた彼は、平氏政権に反旗を翻す。鵺退治で名を上げ、武勇に優れる一方、和歌にも秀でた文武両道の名将。以仁王の挙兵に加担し、宇治川の戦いで壮烈な最期を遂げる。源平合戦の火蓋を切った悲劇の武将、頼政の波乱に満ちた生涯を紐解く。
💡 源頼政は、平安時代末期に活躍した武士であり、優れた歌人でもありました。鵺退治の伝説でも知られています。
💡 平清盛の専横に反発し、以仁王の令旨を受けて挙兵。宇治川の戦いで敗れ、自害しました。
💡 頼政の死は、源氏再興への機運を高め、後の源平合戦へと繋がる大きな転換点となりました。
本日は、平安時代末期の武将、源頼政について詳しく見ていきましょう。
その波乱に満ちた生涯を、多角的にご紹介します。
源頼政:才気溢れる歌人にして武人
源頼政はどんな人物だった?
武勇と歌才に優れた人物
頼政は多才な人物だったのですね。
武士でありながら歌人としても名を馳せ、朝廷にも仕えていたというのは興味深いです。

✅ 頼政は摂津源氏の出身で、朝廷や摂関家と密接な関係を持つ京武士でした。大内守護の職務を務め、歌人としても知られていました。
✅ 保元・平治の乱では、美福門院側の立場から天皇方に与し、最終的に平清盛側に加わりました。しかし、平治の乱の後、源氏の長老として平氏政権下で中央政界に留まりました。
✅ 頼政は二条天皇、六条天皇、高倉天皇の三代に仕え、後白河法皇の武力として活動するなど、政治的に重要な役割を果たしました。また、優れた歌人として知られており、多くの著名歌人と交流を持ちました。
さらに読む ⇒出典/画像元: https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF頼政は、武士としてだけでなく、歌人としての才能も認められ、朝廷で重要な地位に就きました。
まさに文武両道ですね。
源頼政は、摂津源氏出身の武士で、鳥羽法皇に仕えていました。
美福門院や藤原家成らと交流を持ち、鳥羽法皇の信頼を得ていました。
頼政は和歌にも優れ、歌人としても活動していました。
『詞花集』などの勅撰和歌集に作品が収められています。
頼政は、鵺退治の伝説で知られており、二条公園の鵺池はこの伝説にちなんで名付けられました。
鵺は、頭が猿、胴体が狸、手足が虎、尻尾が蛇という姿の怪鳥で、頼政は鵺を射落とし、その際に血の着いた鏃を鵺池で洗ったと伝えられています。
頼政は、武勇に優れた人物として知られており、若い頃は「鵺退治」で名を上げ、「保元の乱」では後白河法皇側に、「平治の乱」では平清盛側に属しました。
頼政は、平氏政権下で生き延び、長い間従四位に留まっていましたが、歌人としても才能があり、その才能を認められて従三位に昇進しました。
頼政は、平清盛の片腕として平氏政権で活躍した人物です。
文武両道に優れ、優れた歌人として知られています。
保元の乱では後白河天皇側に立ち、平治の乱では清盛を助けて源義朝を討伐するなど、平氏政権の安定に貢献しました。
その功績により、1167年には従四位下に昇進し、1178年には従三位にまで昇進。
源氏が公卿となるのは前代未聞で、頼政の功績と平清盛の信頼の厚さを物語っています。
頼政は、武士であり、歌人であり、政治家でもあったんですね。まるで、現代のマルチタレントみたいです。
平氏政権への反乱:運命の岐路
頼政はどのような理由で平氏政権に反旗を翻したのか?
以仁王の平家追討に賛同したため
頼政の決断が、その後の歴史を大きく動かしたんですね。
平氏への反乱は、大きな転換点だったといえるでしょう。

✅ 源頼政は、平氏政権下で源氏の長老として活躍し、大内守護として朝廷に仕えながら、歌人としても活動していました。
✅ 頼政は、平家政権の専横を嫌い、後白河法皇の第三皇子である以仁王と結んで平氏打倒の挙兵を行いました。
✅ 頼政の挙兵は失敗に終わり、宇治川の戦いで自害しました。彼の死は、源氏再興を願う多くの武士たちの心を奮い立たせ、後の源平合戦へとつながる重要な出来事となりました。
さらに読む ⇒出典/画像元: https://www.his-trip.info/keizu/g13.html平氏政権の横暴に対して、頼政が反旗を翻したことは、その後の源平合戦の火種となりました。
歴史の大きなうねりを感じます。
頼政は、平氏政権の専横が目立つようになり、1180年に後白河法皇の第三皇子である以仁王が平氏追討の令旨を出し、全国の源氏・大寺社に挙兵を呼びかける謀反が露見しました。
この謀反に頼政も加担していたことが判明し、頼政は平氏政権に反旗を翻すことになります。
頼政は、以仁王の平家打倒の計画に賛同し、一族を率いて挙兵しました。
三井寺に拠点を構え、延暦寺との共闘を図りましたが、平家の圧力で延暦寺は中立を保ち、頼政は奈良の興福寺へ向かう途中に平家軍に追いつかれ、宇治で激戦を繰り広げました。
この戦いで、頼政の長男・仲綱と次男・兼綱は戦死し、頼政自身も負傷し、平等院の境内にて自刃しました。
頼政は、平氏政権との戦いで命を落とすという悲劇的な結末を迎えます。
平氏の横暴に耐えかねて反乱を起こした、というのが頼政の決断の理由なんですね。ドラマチックです!
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源頼政、平家打倒へ!しかし、裏切りと情報漏洩で宇治で討死。源平合戦の序章を彩る悲劇、武士の生き様を凝縮。頼朝挙兵への影響も。