大塩平八郎の乱とは?(社会不安と民衆蜂起、その真相に迫る?)大塩平八郎の生涯と天保の乱
正義を貫き、民を救おうとした男、大塩平八郎。賄賂を拒否し、陽明学を学び、飢饉に苦しむ民衆のため決起!しかし、わずか1日で鎮圧。それでも、その行動は社会に大きな波紋を広げ、民衆反乱の連鎖、そして天保の改革へと繋がった。社会の矛盾と権力への抵抗を描く、日本史の転換点となった事件。
💡 大塩平八郎は、江戸時代後期の武士で、陽明学を学び、民衆救済のために尽力した人物です。
💡 天保の大飢饉による社会不安の中、米価高騰と町奉行所の対応への不満から、大塩平八郎は決起しました。
💡 大塩平八郎の乱は、幕府の威信を失墜させ、幕末の志士たちに影響を与えた事件としても知られています。
さて、まずは大塩平八郎という人物と、彼の生きた時代背景について、それぞれの章で詳しく見ていきましょう。
大塩平八郎の生い立ち
大塩平八郎はなぜ与力を辞職したのか?
不正を憎んだため
大塩平八郎の生い立ちから人となりを知り、彼の行動の背景を探ります。

✅ 大塩平八郎は、江戸時代後期の武士、儒学者で、大坂東町奉行所組与力として不正に厳しく、辣腕をふるったことから、上司の理解を得て活躍しました。
✅ しかし、上司が辞職するとともに与力を辞め、学業に専念し、私塾を開きました。天保の飢饉では、米価高騰の原因となった江戸への米移出や米の買い占めを批判し、窮民救済を訴えましたが、聞き入れられず、武装蜂起を決意しました。
✅ 天保8年2月19日、門人や民衆とともに蜂起しましたが、密告により鎮圧され、大きな被害をもたらしました。大塩は潜伏後、自害し、その乱は幕府の威信を大きく失墜させ、幕末の志士たちに影響を与えたことから、明治維新の魁と評されることもあります。
さらに読む ⇒日本の漢詩文出典/画像元: https://nipponkanshi.hankeidou.jp/2016/09/ohshioheihachiro.html大塩平八郎の正義感の強さや、学問への熱意、そして、不正を許さない姿勢がよく分かります。
与力を辞職して私塾を開いたことも、彼の信念の表れでしょう。
寛政5年(1793年)、大塩平八郎は代々与力の家系に生まれました。
正義感が強く、真面目で優秀な仕事ぶりで、東町奉行の高井実徳に重用されていました。
しかし、賄賂を拒否し、不正を憎む性格から、出世の機会を逃し、与力を辞職。
その後は陽明学を学び、子弟の指導や書籍の執筆に専念しました。
大塩平八郎の生い立ちについて、正義感が強く、学問を好んだ人物だったんですね。ただ、出世できなかったのは残念です。
飢饉と大塩の決意
大塩平八郎は何に怒り、どんな行動に出たのか?
跡部良弼の無策と民衆の苦しみ
大塩平八郎の決意に至るまでの、天保の大飢饉の詳細と、その背景にある社会状況を解説します。

✅ 大塩平八郎の乱は、天保の大飢饉による社会不安と町奉行所の失政、豪商の米の買い占めなどが背景となり、元与力の大塩平八郎が町奉行所への不満を爆発させた反乱です。
✅ わずか一日で鎮圧されたものの、元役人が反乱を起こした衝撃は大きく、生田万の乱などの民衆蜂起を引き起こし、後の天保の改革にも影響を与えました。
✅ 大塩平八郎の乱は、当時の社会構造の矛盾や民衆の苦しみを浮き彫りにし、政治体制に対する国民の意識を変え、後の社会改革の必要性を示唆した意義深い事件と言えます。
さらに読む ⇒日本史事典|受験生のための日本史ポータルサイト出典/画像元: https://nihonsi-jiten.com/ooshio-heihachirouno-ran/天保の大飢饉の惨状と、大塩平八郎の救済活動に対する町奉行所の無策が印象的でした。
彼の私財を投じた行動は、共感を呼びますね。
天保の大飢饉が到来し、大阪市中の惨状を目の当たりにした大塩は、跡部良弼の無策を嘆き、蔵米の放出や豪商の米買い占めなどを訴えましたが、聞き入れられませんでした。
彼は、自身の財産を投げ出して市民を救済しようと努め、蔵書を売却し、檄文を配布して、役人を処断し、豪商から奪った金銭を民衆に分配する計画を立てました。
飢饉の状況が本当に酷かったことが伝わってきました。大塩平八郎が私財を投げ打ってまで民衆を救おうとしたのは立派ですね。
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わずか1日で終わった大塩平八郎の乱。元役人の反乱は社会に衝撃を与え、民衆蜂起を誘発。天保の改革のきっかけにもなった、日本史の転換点。