磐井の乱とは?古代日本の権力闘争と歴史的背景を徹底解説!筑紫君磐井とヤマト王権:激動の時代
磐井の乱、その真相に迫る!従来の解釈を覆し、九州王朝による宣勅や、磐井こそが倭国の統治者だった可能性を提示。古田史学による三年繰り上げ説や、対朝鮮半島交渉における倭王権との確執など、様々な視点から乱の背景を考察。ヤマト王権との権力闘争、そして日本の国家形成における重要な転換点とは?古代史の謎に挑む、刺激的な内容!
💡 磐井の乱は、6世紀初頭に九州地方で起きたヤマト王権に対する反乱で、日本古代史における重要な事件の一つです。
💡 反乱の首謀者である筑紫君磐井は、ヤマト王権の朝鮮半島への出兵を妨害し、独自の勢力拡大を図りました。
💡 磐井の乱は、ヤマト王権の権力確立、地方支配の強化、そして後の武士台頭に繋がる重要な転換点となりました。
それでは、磐井の乱がどのような出来事だったのか、そしてその背景や影響について、詳しく見ていきましょう。
磐井の乱:新たな解釈と『芸文類聚』の役割
磐井の乱は南征ではなく、別の勢力との対立だった?
九州王朝の宣勅の可能性あり
今回の記事では、その『磐井の乱』について、新たな視点から迫っていきます。

✅ 記事は、日本書紀の天武八年の記事に書かれている「竜田山・大坂山の関」が、九州王朝によって難波宮を守るために置かれた可能性が高いことを論じています。
✅ 具体的には、関とは何か、古代における関の重要性について、養老令や壬申の乱などを例に挙げながら説明しています。
✅ 関は、敵が味方の地に侵入するのを防ぐため、山を越えて平野部に位置しており、国司が分担して守っていたことが明らかになっています。
さらに読む ⇒出典/画像元: https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjit18/seki9syu.html古代の関の役割や、当時の政治状況を詳細に解説しており、非常に興味深い内容です。
古代史の知識がより深まりそうですね。
磐井の乱は、従来の解釈では南征とされてきましたが、服部静尚氏は会報159号でこの解釈に疑問を呈し、九州王朝による宣勅の可能性を指摘しています。
また、磐井の乱の記述に用いられている『芸文類聚』からの引用に着目することで、当時の状況を考察することができます。
『日本書紀』には、『芸文類聚』からの引用が多く見られますが、これは九州王朝が史書を編纂していた可能性を示唆しており、磐井の乱が九州王朝と大和朝廷の権力闘争の一環であった可能性を示しています。
なるほど、古代の関が重要だったというのは目から鱗ですね。日本書紀と芸文類聚の関係性も興味深いです。
古田史学による磐井の乱の解釈
古田史学は「磐井の乱」をどのように解釈していますか?
磐井は倭国の統治者
今回の記事は、古田史学の観点から磐井の乱を解説しています。
公開日:2023/07/19

✅ 磐井の乱は、継体天皇21年(527年)に、近江毛野臣率いる大和朝廷軍の任那(加羅)への進軍を筑紫君磐井が阻止したことから始まった反乱です。
✅ 磐井は新羅から賄賂を受け、大和朝廷軍の渡航を妨害したとされていますが、これは「日本書紀」の創作の可能性があり、実際には継体天皇の擁立に呼応した倭国の物部麁鹿火による下剋上であったと考えられています。
✅ 磐井の乱の結果、磐井は物部麁鹿火によって討伐され、任那は消滅したとされています。また、磐井の勢力は、宮地嶽神社、粕谷の屯倉、熱田神社、磐井八幡宮など、各地に痕跡が残っています。
さらに読む ⇒神話を科学する古代史探訪出典/画像元: https://kouratamadare.com/%E7%A3%90%E4%BA%95%E3%81%AE%E4%B9%B1古田史学の解釈は、従来の歴史観とは異なり、大変興味深いですね。
磐井を倭国の統治者と捉える視点は斬新です。
古田史学では、『書紀』の継体崩御記事が「三年繰り上げ」されており、それに伴い「磐井の乱」記事も「三年繰り上げ」されていたと主張しています。
本来は五三一年の磐井の崩御記事であり、『百済本記』にある「日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨る」の「日本天皇」は磐井を指すと言います。
また、継体の麁鹿火への詔は磐井の大伴金村への詔であり、「長門より東をば朕制とらむ。
筑紫より西を汝制れ」は、芸文類聚の「主、親ら鉞を操りて、将軍に授けて曰はく、將軍これを制れ」を改変したもので、天子の磐井が内政を、外政は将軍に任せることを示していると考えられます。
さらに、宣化二年(五三七)の大伴金村の新羅討伐記事は、本来「筑紫で政を執る」のは「筑紫国造(君)」磐井のはずなのに、磐井を金村の息子「磐」として、新羅討伐記事を磐井没後に移し宣化の事績としたと主張しています。
古田史学では、磐井こそ、半島で新羅と覇権を競った倭国の統治者であり、「磐井の乱」の真相だと考えています。
古田史学、初めて聞きましたが、色々な見方があるんですね!磐井がそんなすごい人だったとは知りませんでした。
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527年の磐井の乱。九州で独自の年号を制定した磐井と、ヤマト王権の対立!東アジア情勢や日朝関係が絡み合う古代日本の激動を描く。国家統一への道を紐解く。